インターネットやめろ
全然アナウンサーとか詳しくない私でも顔は見たことがあるアナウンサーの人が「インターネットの”きれいな文字”で書かれたものは全て正しい事を言っているように思えてしまう」というような事を言っていて、さすが私でも見たことがあるアナウンサーの人だなと思った。
國分巧一朗さんの『目的への抵抗』を読んでいたら、千葉雅也さんが「抑制のために他者の身体がある」という事を話していた、と書いてあってさすが頭のいい人たちの会話だなと思った(どこかの書籍に書いてあるのかなと思って調べたけど出てこなかった。知っている人がいたら教えてください)。
ネットでは匿名をいいことに悪口を他者に簡単にぶつける事ができるけど、目の前に他者がいたら悪口をぶつけまくって炎上させることはできない。という事らしいけど、そう考えると人間のコミュニケーションは基本的に「身体」が必要になってくる気がしてくる。
目の前で「ばかだなー」と笑いながら言われるのと、きれいな文字で「ばかだな」と言われるのは受け取り方が変わってくる(この場ではどちらも同じ文字なので伝わりにくいかも知れないが)。
直接会って話す、オンライン上で顔を見ながら話す、電話で話す、文字でやり取りをする、の順で情報量は減っていき、コミュニケーションも円滑に取れなくなっている。だけど現実では文字でやり取りをする事の割合がかなり多く、それをまずいと感じた人が絵文字やスタンプを開発したのではないでしょうか。
そもそも、私は人間は自分の感情すらすべてを理解できないと思っていて、それを他者に伝えようとする段階で感情はさらに少なくなってしまう(〈言葉は穴のあいた 軽い砂袋さ君まで届ける前に かなりこぼれてしまう〉とベースボールベアーの小出さんが表現しているのを見てこの人は本当に信頼できると思った)。
私は、言いたい事を言える状態なのに自分のせいで言えない事が多々ある勝手にポイズン状態によく陥るのですが、目の前に他者がいるのにそんな事になってしまう私からするとインターネットの”きれいな文字”はたまにとても怖ろしくなります。Twitterってそれに加えて140字しか使えないのだから砂袋は穴だらけ(なんかたまにめっちゃ文字多いツイートあるけどあれ何?)。
それなのに「Twitterで書いたことがその人の感情の全て」と思われてしまうような風潮があり、私自身もTwitterを見て「この人って”こういう人”なんだ」と思ってしまう事もある。
本人はお笑いのつもりでやった事が、深刻な話題のように思われてしまう事もある。そういう現象が最近自分にも周りにも多すぎる。
そしてこの文章もなんか私がブチ切れながら「お前ら聞け!!!!!!!」という気持ちで書いている、と捉えてしまう人も絶対にいる。
勘違いしてほしくないけど、”きれいな文字”にして発信をした時点で全部が伝わる事はないので、そこは諦めている部分もある。
でも、たまに諦めたくないよなと思うから文字にするけど、本当はお笑いライブでお客さんの前で言いたい。でもすべるから言わない。
そういうバランスで生きています。
頂いたサポートでドトールに行って文章を書きます