*禅語を味わう...033:深秋簾幕千家の雨...
深秋簾幕千家雨
はや、10月も終わりになりました。
二十四節気では「霜降」を過ぎ、晩秋から初冬にさしかかる頃です。
さて、今回の禅語は、晩唐の詩人、杜牧(803-853)の『宣州開元寺の水閣に題す』からです。
深秋簾幕千家の雨
秋の長雨のことを「秋霖」と呼びますが、晩秋から初冬にかけては、暦の上でも「霜始降」(「霜降」の初候」)そして「霎時施」(同 次候)などといわれているように、朝夕の冷え込みが厳しくなり、初霜が降り、あるいはしとしとと小雨がふり、時として小雪がちらついたりするものです。
秋も深まってくると、どの家も深く簾をおろし、街は賑わいの様相から、人通りもまばらな、静かな佇まいに移りかわっていきます。
杜牧の詩は、深まる秋の、この、身に迫るような淋しい季節の雰囲気をよくあらわしています。
簾をおろし、息を潜めているかのように静まりかえった街に、音もなく秋時雨が降りそそぎます...
空一面の雲に覆われて、はっきりとは見えませんが、夕暮れ時、太陽は既に西に傾き、鈍色の空は、次第に濃紺に、墨色に...と光を失っていきます。
すると、まばらな雲の切れ間に、微かな残照を映す夕空を背景に、黒々と聳え立つ楼閣から響いてくるのでしょう。どこからか、寂しげな笛の音が、鋭く一声、フッと吹き抜ける風にのって流れてきます。そんな情景を描く詩です。
落日楼台一笛の風
しとしとと降る秋雨は、黄昏の薄暗がりのなかでは、目を凝らしてもはっきりとは見えません。静かに耳を澄ませなければ聴こえない、その微かな響きだけが、街中の家々の屋根に降りそそぐ雨の存在を伝えてくれるのです。
手を止めて、静かに外の世界の物音に耳を傾けるとき、わたしたちは、いつしか自分自身のこころの内に向かって耳を澄ませはじめます...深くおろされた簾の奥に思いを馳せるように。それは、秘められた心の底にそっとふれるような、秘やかで繊細な時間です。
その時、突如として、その沈黙に鎖された時を破るように、どこからか笛の音が、鋭く聴こえてくるのです。
風に乗ってどこからともなく響いてくる笛の音...
それを耳にする者は、ハッとして音のする方角を見やる。しかし、どこからやってくるのか、わかりません。そしてそれは、わからない方がよいのです。
いのちを謳歌するように燃え立つ夏が終わり、残暑も過ぎ去り、冷たい秋風が吹き抜ける頃...
季節は次第次第に落ち着きを増し、静かな時を刻みはじめています。この静かな時には、黙って手を止め、見えない薄暗がりを透かして目を凝らし、聞こえない風の彼方に耳を澄ませることがふさわしい。
秋から冬にかけては、いのちが終焉に向かっていく、その厳かな歩みを、わたしたちに感じさせてくれる季節です。
実りの季節が過ぎ、収穫が終わると、いのちを全うしたものは、長い長い眠りに就くのです。
このいのちの終わりを、わたしたちは静けさと、薄明の薄暗がりのなかに感じ取るのです。
寂寥感...と人は言います。そして喜ばしいものとは受け取りません。しかし、この寂寥感こそが、限りあるいのちの本当の姿をわたしたちに教えてくれるのです。
ことさらに姿を認め、音の元を探り、その正体を知ろうとする時、かえって見えなくなるもの、聞こえなくなるものがある...
それを知ることが、智慧のはじまりなのです
この詩の出典にさかのぼると、一時の栄華を誇りながらも、時の流れの中に儚く滅び行くものの姿と、変わらない自然の姿、そして無常の中に漂い浮かびながら為す術もなく消えていく人間の生の営みが重なり合い、絡み合う姿を歌う陰陰とした響きの中に、時折、透徹した眼が閃くような、複雑精妙な七言の律詩です。
これはとても深く、素晴らしい詩ですが、禅の世界から見る時には、詩情を味わうのではなく、禅の修行の目的、つまり自分自身にズバリと向き合うための手掛かりとして読んでいきます。
ですから、「禅語」として見る場合には、もとの詩作の中で、その目的に最もふさわしい部分だけを切り取ってくるのです。
そうすることによって、出典の原作を知らない人にとっては、もとの作品が持っている深く精妙な部分は消し飛んでしまうことになるかもしれませんが、同時に、詠嘆や情趣に流されることなく、厳しく真摯に自分自身に向き合うことができるようになるのです。だから、禅語としては敢えて、
だけを持ってくるのです。
禅語に向き合うとき大切なのは、その語のどこから、どこに向かって切り込み、掘り下げていくか、ということです。
この句で言うならば、たとえば「雨」...
雨は確かにしとしとと降っている。しかし、その姿は見えない。雨は、どこに降っておる、というところです。
えっ、雨はどこに降っておるって? そんなものは外に降っておるに決まっているではないか。
では、話になりません。そのような感覚では、雨に詩情を抱き、無常を感じ、あるいは雨音の中に孤独や悲哀の響きを聴き取ることなどできようはずがありません。そして、そのようなことでは、儚い一生の中で、わたしたちは一体何を学ぶことができるというのでしょうか?
非力で無知なわたしたちには、「何かを成し遂げる」ことなど夢の又夢...多くの場合、気が付かないだけで、多くの人の力と助けを借りながら、どうにかこうにか何かを為したかのように感じることができるだけのことです。自分の身一つですら、どうにかこうにかまっとうさせていただくことができるかどうか...歳を重ねるにつれ、そのようなことが嫌でもわかってきます。
愚かなわたしたちにできることといえば、精一杯生きた、優れた先人たちの言葉の響きを追いかけ、その行履(ふるまい)を慕い、深く共感し、自らの生きる糧にすること以外には無いではないですか。
晩秋から初冬にかけての雨を「時雨」と言います。「時雨」は、俄に降り、俄に止み、降ったり止んだり、曖昧で正体を掴ませない雨です。
「深秋簾幕千家の雨」...雨は、どこにある? 耳を澄まし、あるいは薄明の中に目を凝らしてその在処を探す。全身全霊でその在処を探す。しかし、わたしたちが全精神を向けて探すその先には、ただ虚空だけが拡がっているのです。それでもわたしたちは、その虚空に向かってどこまでもどこまでも心を向けていくのです。
「落日楼台一笛の風」...どこからともなく、風に乗って笛の音が聞こえてくる。笛の音とおぼわしきものは微かで、それが笛の音かどうかさえ、おぼつきません。ただ、この笛の音とおぼわしき音に、わたしたちはハッと我に返るのです。この「ハッと我に返る」というところが、禅から見るこの句の眼目です。「ハッと我に返る」とは、何かにハッと気付くことです。それでは、何に気が付いたのか? 我に返る、といいましたが、その場合の我、とはいったい何者なのか?
そんなものは、ここで音を聴いた自分に決まってるじゃないか...
そう言ってしまうなら、話は終わりです。
そのようなことなら、ここで笛の音を聞いたとて、そこに何の意味があるというのですか? ありません。そのように受け取ってしまうならば、この句そのものに意味がなくなってしまいます。夕方、どこかから、音が聞こえました、はい、終わり、です。
杜牧がこの『宣州開元寺の水閣に題す』を歌う少し前のこと、宣州で一人の禅僧がその生命を終えました。「南泉斬猫」...一刀のもとに猫を斬り捨てたエピソードで知られる南泉普願(748-835)禅師です。
南泉和尚は、趙州従諗(778-897)、長沙景岑(778-868)といった傑僧を育てあげ、宣歙観察使の陸亘大夫(764-834)の帰依を受けてその名声が天下に轟き、数百の門弟を抱えていたといいます。
そしてこの南泉和尚は、三十数年間住していた南泉山を下り、最後の七年を宣州で過ごしています。
最晩年の南泉和尚が、宣州のどの寺に住していたのかはわかりませんが、これだけの人物ですから、開創は東晋時代にさかのぼり、玄宗皇帝の開元年間に大雲寺から開元寺に改名されたという、宣州屈指の名刹・開元寺に住していたのかもしれません。ともあれ、大和八年(834)12月25日の早朝、南泉普願は、
と末期の言葉を残して遷化(禅僧の死)しました。
姿を認め、声を聞き、その生存の証をもとにしてその人に接するならば、その人の生涯は「去来」の相を示します。そのようにして、誰もがこの世に生を受け、オギャァ! と産声を上げて成長し、人生の盛りを迎え、衰え、死んでいきます。それは間違いのないことです。
しかし、ただそのように、目で見て、耳で聞いて、手で触れるものだけがその人なのか、といえば、そうではありません。
親しく南泉和尚の謦咳に接し、その教えを受けて修行に励んだ者たちも数多かったのですが、その没後、その肉身は失われ、ただ書物に記された事績や言葉のみが不完全な形でかろうじて遺されているだけの状態であるにもかかわらず、南泉和尚を慕い、その行履に思いを馳せ、修行に志し、道標を得て人生を歩んでいく者は、今も数知れません。
「色身」つまりこの肉体は敗壊しても、滅びないものがある。
人間には「去来の相」だけではなく、去来しないものがあるのです。
南泉和尚が最期に残した言葉は、「去来の相」ばかり見ておるならば、たとえ生身において出会ったとしても、ほんとうの儂に出会ったことにはならんぞ、ということです。
星が翳り、燈も尽きかけて、辺りは暗闇に近づいていきます...
確かなものが見えなくなるとき、初めてわたしたちは、五感に頼らず、確からしさに頼らず、全身全霊で、目に見え、耳で聞こえるものの彼方に心を向けるようになるのでしょうか...
生きるということは、どういうことなのか?
死ぬということは、どういうことなのか?
去来するということは、どういうことなのか?
去来しないものとは、どういうものなのか?
雨の音、笛の音の彼方に思いを馳せながら、この語をゆっくりと味わいたいものです。
写真:工藤憲二氏