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*禅語を味わう...028:雨後の青山青轉た青...

雨後青山青轉青うごのせいざんせいうたたせい


新緑の美しい季節、ここ東山梨は、緑一色に染まります。
四月には桃の花におおわれ、ピンク色に染まった桃源郷とうげんきょうは、今度はよそおいも新たに、「翠滴みどりしたたる...」という言葉がぴったりくるような、瑞々みずみずしい姿に一変します。
さて、今回の禅語です。

雨後うご青山せいざん青轉せいうたせいなり

雨が降ると、青々とした姿を見せていた新緑の山々が、また一層生き生きと、輝きを増しながら目に映ります。「雨後の青山、青うたた青」とは、そんな情景です。
同様な禅語として、「雨後の青山緑なり」「雨過ぎて山転た青」といった語もよく知られていますが、いずれにしても、時は新緑の頃、山の青さが一番輝き際立きわだつこの時節、恵みの雨がすべての汚れを洗い流し、あふれるようなうるおいをもたらす。そして、新緑の山々は雨に洗われ、その青さを一層きわだたせるのです。
もともと見事な景色だったものが、更に一層素晴らしさを増し、面目を一新する。
「青転た青」というところが、「青いがうえに、一層青い...」と、そんな感覚をよくあらわしています。

雨は恵みの雨として、大地に住まうすべてのものの命をはぐくむ大切な存在です。
そして同時に、すべての汚れを洗い流し、清めてくれる存在でもあります。
雨上がり、山も河も、家並みも、木立も、ハッとするほど鮮やかで綺麗きれいな姿を見せてくれます。大気も澄んで、遠くの山並みの姿さえ、くっきりと鮮明に見えるほどです。
しかし、雨上がりの景色が美しいのは、山や河、大地に、何も特別な装飾そうしょくを施したからではありません。雨は、ただ降り注ぎ、ちりほこりを洗い清めるだけ。それでも、山も河も、草木も、魔法のようにその本来の姿を現すのです。
私たちも、何か特別な事をして、自分たちの姿を飾り立てる必要はないのです。ただ、「ありのまま」の姿を現すだけでよい。

禅の思想は、「向上こうじょう」というところを大切にします。
修行を積み重ね、自分を高めていく...これではいかん、これではいかん、まだまだ、一踏ん張り...どこまでもどこまでも、行けるところまで、果てしなく...
これでよい、というところのない、終わりのないのが修行です。
しかし、こうした修行の努力、「向上」のところとは、決して何か優れた技能を身つけ、貴いものを身にまとっていくことではありません。努力の結果、何か凄いものを積み上げていくことでもない。修行は、いわゆる「スキルの習得」とは本質的に違うのです。
修行の本質とは、坐禅を長時間できるようになったり、お経が読めるようになったり、掃除の達人や料理の名人、庭の玄人になることとは、まったく別のところにあるのです。
もちろん、そうはいっても毎日真剣に努力を重ねているわけですから、修行を続けていれば、必然的に様々な技能や知識が身に備わってくることは間違いがありません。それはそれで尊いものなのですが、そうしたものは最初から目的などではないし、それほど重要なことではないのです。
大切なことは、「修行の目的」であり、それ以外のことはどれほど素晴らしいものであっても、所詮しょせんは副次的なものなのです。それでは、その大切な「修行の目的」とは、いかなるものなのか...


繰り返しますが、禅の世界は、修行がすべてです。修行とは「実参実究じっさんじっきゅう」つまりじっさいに自分の身でそれに立ち向かい、自分の身体で実地にそれを究明することです。その時、本質的でないものは、すべてぎ落とされてしまいます。
その人にとって本質的なもの...その人のものの考え方、感じ方、性格...要するに、その人の生き方そのものに深く食い込んでいるもの以外は、すべて借り物です。借り物は、どれほど素晴らしいものであっても、実地に投げ込まれ、まれ、叩かれ、つぶされしているうちに、いつかは消え去ってしまう。
反対に言えば、叩かれ、叩かれ、潰され、潰されしてもなくならないものこそが、「真実のもの」だということになります。修行の目的とは、この「真実のもの」、まれ、叩かれ、潰されても無くならないもの。揉まれ、叩かれ、潰される中で、ますます輝きを放つ「本質的なもの」を、はっきりとわがものとして手にすることにほかなりません。

百練千鍛ひゃくれんせんたん」という言葉がありますが、練り上げ練り上げ、きたえ込み鍛え込みして、余計なものをすべて叩き出し、抜き去り、本当にその人の生き方、その人の人間としての在り方の根本にあるもの、本質的なものだけを鍛えだしていく。それが「実参実究」ということであり、修行ということなのです。
ですから、修業つまり「実参実究」の世界は、「引き算」の世界なのです。その人その人の「人となり」をいろどるさまざまなもの...知識や能力、好みや性格...こうしたものもすべて一度は修行の「坩堝るつぼ」の中に投げ込んで、鍛え抜く。
余計なものを叩き出し、本当に残るもの、その人の人間性の核になっているものだけをりだしてくる...これこそが、本当の意味での「ありのまま」。

私たちは、自分のことを飾り立て、特別なことを習得などしなくてもよい。しかし、何もしなくてそのままで「ありのまま」かといえば、そんなことはありません。
多くの人が、日常の中で、意識的にせよ、無意識的にせよ、余りに多くのよろいを身にまとい、本当の自分の生き方が一体どこにあるのかもわからなくなってしまっているのですから...
自分の生き方にとって本当に大切なもの、これがわかれば自分の「ありのまま」もわかる。
一方、こうした自分本来の「ありのまま」もわからないで、ただ表面的に、他人とのあいだに優劣をつけ、自分の姿を飾り立てる。そして、いつしか、飾り立てた自分の姿を、自分の本来の姿だと信じ込んでしまう...飾り立てただけの、虚構きょこうの自分を守ろうと必死にふるまっても、無理が続くはずがありません。これでは生きるのが辛いはずです。

雨後の青山、青うたた青

心地よい初夏の雨が、すべての塵や埃を洗い流してくれるように、自分にとって本当に大切なものは何か、本当の自分の生き方とは、どうあるべきか...
嘘偽うそいつわりのない生き方をつかむために、勇気を持って、身にまとよろいや飾りをすべてぎ取り、一心に自分自身に向き合う修行の努力は、悩みや不安、不信に縁取ふちどられた、ゆがんだ自画像をすべて洗い流してくれる...そしてそこにこそ、本当の「ありのまま」が姿を現してくれる。

仏教は、人間の生の本質に「苦しみ」を見つめる教えです。そして禅もまた、私たちが人生において受け止めなくてはならない苦しみから眼をそむけるなと教えます。しかし、禅の教えの根本は、私たちの「命」に対する全面的な肯定なのです。
「雨後の青山 青転た青」という時、私たち人間の人生は、翠滴みどりしたたる「青山」だと、禅は教えます。どれほど辛かろうと、悩みが深かろうと、苦労が多かろうと、青山なのだ、と。そして、塵や埃が洗い流されたならば、「青転た青」...美しい青山は、一層瑞々しく、美しく輝くのだ、と。私たちも、迷いや不安をさっぱりと流し去って、自分自身の「青山」に対面しながら毎日を過ごしていきたいものです。

写真:工藤 憲二 氏

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