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禅語を味わう...014:月落烏啼霜満天

月落ち烏啼いて霜天に満つ

(つきおち とりないて しもてんにみつ)
(月落烏啼霜満天)


霜月、11月も終わりとなりました。
今年は例年に較べて寒暖差が大きく、とても見事な紅葉を楽しむことができました。
恵林寺のある峡東でも、「お寒いですね」、「寒くなりましたね」という挨拶に続いて、「今年が寒い、というのではなくて、昔はこんな気候だった、という感じですね」「そうそう、子供の頃も、11月に入ると氷が張ったりね」といった会話が交わされたりもします。

さて、ギリギリの駆け込みとなりましたが、11月の禅語は、

月落ち烏啼いて霜天に満つ...

出典は、中唐の詩人、張継(ちょうけい:生没年不詳)の七言絶句『楓橋夜泊(ふうきょうやはく)』です。本国の中国はもちろん、日本でも昔からよく知られた有名な作品です。
はじめに、元の詩を見てみます。

楓橋夜泊  張継
月落ち烏啼きて、霜天に満つ。
江楓、漁火、愁眠に対す。
姑蘇城外(こそじょうがい)の寒山寺、
夜半の鐘声 客船(かくせん)に到る...
月落烏啼霜満天
江楓漁火対愁眠
姑蘇城外寒山寺
夜半鐘聲到客船


夜も更け、月は西の空に傾き落ちて、夜空が闇に包まれる中、夜烏の声が一声...冬の空は、満天の霜が降り注ぐように、しんしんと冷えてきます。
河岸の楓は赤く、漁船の漁り火がチラチラと煌めき、慣れない旅先で眠りに就くことができないわたしを寂しさが苛みます。
姑蘇城の外には寂れた山寺があるのであろう、
夜半を告げる鐘の音がわたしの泊まる客船にまで響いてくるのだ...

声に出して読み上げても美しく、情景の鮮やかさと心の憂いが印象的なこの詩は、聴覚、視覚、そして冬の夜空の冷え込みを皮膚感覚として伝えながら、旅先の憂いと孤独、寂寥感を何重にも重ね合わせ、情景を立体的に、心象を重層的に私たちに伝えてくれています。
その構成の巧みさ故でしょうか、作者がそれほど有名ではないにもかかわらず、教科書に載るなど、本場の中国人が関心を持つほど私たち日本人の心を魅了してきました(参考:どうして日本人は「月落ち烏啼いて霜天に満つ」の漢詩を教科書に載せるほど愛しているのか=中国メディア)。


しかしながら、ここでこの語を紹介するのは、文学作品としてではなく、あくまでも「禅語」としてです。
「禅語」というのは、修行の上での自分の体験を、借り物ではなく、生きた自分の言葉としてわがものにして使う、というのが基本です。
ですから、心に響く言葉に出会ったならば、何度もその語を口ずさみ、自分の体験と重ね合わせ、心の奥底にある切実な思いとピッタリと重なり合うところまで時間をかけて向き合わなくてはなりません。
大切なのは、出典の作品世界に忠実であることではなく、その言葉がどれほど自分自身の切実な思いをのせて語り出されるか、どれほど自分の心の言葉となっているかということなのです。
その本の文脈から切り離され、新しい生命を吹き込まれる時、真に「禅語」と呼ぶに相応しいものになる...「禅語」が修行の上の言葉である、とされる由縁です。

人口に膾炙しているような名句についての、「禅語」としての解釈を呈示する時、それは過剰な深読みである、と注意されることがあります。牽強付会だ、と言われることもあります。
それはたしかにそうなのですが、「禅語」というのは、修行僧たちが禅の修行の上で、優れた詩句を借りて自分の境涯を深めるために用いる特殊な指導法の中から出て来るものなのです。
独り善がりの読み方に陥らないように、出典についての学びをすることももちろん必要なことですが、一つの言葉を、わがこととして実感を持って味わい、用いることができるための修行も大切ではないかと思います。


さて、今回はこの七言絶句から、冒頭の一句を「禅語」として採り上げます。

月落ち烏啼きて、霜天に満つ...

夜が更け、月は沈み、夜空は漆黒の闇に包まれます。
その闇を切り裂くように夜烏の声が鋭く響き、満天の夜空には霜が降りてくるかのように厳しい寒さが満ち満ちています...

修行僧はまずこの句を、誰もいない深山での坐禅が熟し、厳しさを増していくような様子として受け止めます。

修行道場には「夜坐」という習慣があります。
坐禅堂における毎日の正式な坐禅修行が終わり、一日の修行の終わりを告げる「開枕諷経(かいちんふぎん)」という短い読経の後、道場は消灯となります。
しかし、修行僧の夜はここでは終わりません。
「開枕諷経」が終わると、いったんは衣を脱いで夜具に入るのですが、灯りが消えた真っ暗な坐禅堂の中で、静かに蒲団を抜け出し、手探りでもう一度衣を身につけ、坐禅蒲団を担いで、われさきにと本堂の縁側まで小走りに向かいます。そこで、正式な修行の予定表にはない自発的な坐禅修行が始まるのです。これを「夜坐」というのです。
夜坐は、日付が変わる頃まで続くことは珍しくはありません。時には「徹宵夜坐」といい、起床時間まで夜通し坐ることもあるのです。
じっと坐禅を続けていると何時しか夜も更け、月も落ちて、あたりは漆黒の闇に包まれます。森々と夜が深まる、という言葉がありますが、夜の時間は刻々とその貌を改めていくものです。
夜が更けるとともに、静寂はますます深まり、静けさが心に沁みいるその瞬間、夜の帳を鋭く引き裂くように鳥の声一声...
この鳥の声によってハッと我に返ると、冬空は冷たく引き締まり、満天の霜が降りてくるのです。身震いするような瞬間です...
これは、禅語としてみるならば、夜の情景を描いているものではありません。そうではなく、時を忘れて孤独な坐禅を続ける者が、ハッと我に返り、自分自身に目覚める瞬間の、その体験の衝撃をあらわす言葉となっているのです。

張継の元の詩については、月が落ちるというのは夜半のことなのか、朝方のことなのか、夜中に鳥は啼くものなのか、それとも朝方に啼いたのか、それとも烏啼山という地名なのか...といった異論が幾つも出され、さまざまな議論がありますが、禅語として見る時には、そのようなことに用はありません。
「月落ち」とは、孜々兀兀(ししごつごつ)と独り行に励む者の孤独が極まったところ、精も根も尽き果て、絶望の闇の中に落ちていくような、精神の極限をいう言葉。
「鳥啼く」とは、その絶望的な闇のただ中にハッと気付くものがある、その一瞬の気付き、自分の心の奥底から発せられる叫びのようなものを、闇を鋭く切り裂く鳥の声として表現する言葉。
「霜天に満つ」とは、ハッと気付き、我に返ったその時、世界がそれまで自分が思っていたのとはまったく違うものに見えてくる瞬間をいう言葉です。
大切なことに気が付いたその瞬間、私たちには、物の見方、考え方、感じ方がガラリと変わってしまう時があります。
孤独の中で、不安や絶望と闘いながら、厳しく自分自身と向き合い、その果てに気付きを得る...その深く激しい気付き故に、世界はそれまでとは一変して、厳しい貌を見せて私たちに迫ってくるのです。

「義を見て為さざるは勇無きなり」(『論語』為政)という言葉がありますが、気付いたならば、どれほどつらく厳しいことであっても、成し遂げなければなりません。
満天の霜は、自らが果たさなければならない事柄の厳粛さを指す言葉でもあります。そのことに気付いた今、為すべきことが霜のように自分の上に降りかかってくるのです。身が引き締まるような思いと覚悟をもって、修行者は自分のこれからの人生を見遣るのです。


悩みや不安、苦しみを経て仏教、あるいは禅に志す人がいます。
他ならぬこの私自身も、青春時代の悩みと苦しみから自己嫌悪を募らせ、変身願望を抱いて修行道場に飛び込みました。

この苦しみを何とかしたい、この不安から解放されたい...

そんな思いで修行の世界に入りましたが、そこで学んだことは、自分を誤魔化すことなく、自分に正直に、誠実に生きようと思うならば、悩みや不安、苦しみや絶望は決して消え去ることはない、ということです。

人間の生命は儚く脆いものです。

私たちは生命の限界に何重にも取り囲まれていて、一つ一つの課題を丁寧に乗り越えて行っても、人生の中では、さまざまなかたちで繰り返し自分の限界にぶつかり、頽れるしかないのです。
どれほど厳しい修行を重ねても、生命としての人間の限界が無くなることはありません。そして、誤魔化しをすることなく真っ当に生きようと思うならば、苦しみはむしろ増すばかりなのです。
真摯な修行を重ねていく内に、私たちは沢山のことに気付かされます。そして、人の気持ちを思いやることを覚え、気が付かないうちにいかに多くの人の善意や慈しみの心に支えられているかに思い至り、数え切れないほどの生命を犠牲にしながら生きているということに向き合うのです。そうすると、自分自身の悩みや苦しみだけではなく、人の苦しみや痛みも、生きとし生けるものが背負っている苦しみも、少しずつわがこととして感じられるようになってきます。
修行を重ねるということは、自分の苦しみや重荷を軽くすることではなく、むしろ反対に、困難なことではあるけれど、自分以外のものの苦しみをわがこととして生きることへと向かって歩みを進めることなのです。

そのように思う時、この句の元になっている張継の詩「楓橋夜泊」を、もう一度じっくりと味わってみる...自分の心の奥底にある悩みや苦しみ、不安や絶望を呼び起こし、た苦悩や葛藤を背負いながら生きていくということの切実さをもってこの詩を読み込む...その時、この七言絶句は、改めてわたしたち一人一人にとっての「禅語」となって多くのことを気付かせてくれるのです。
写真:工藤 憲二 氏

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