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*禅語を味わう...032:長安一片の月...

長安一片月ちょうあんいっぺんのつき


はや、9月も終わりにさしかかりました。
お彼岸も過ぎ、季節はいよいよ秋の本番...
日中には、ときおり、厳しい残暑がありますが、朝夕の冷え込みは肌寒さを感じさせ、虫の声が季節の移り変わりを告げてくれます。

今回の禅語は、盛唐の詩人、李白(701-762)の名詩『子夜呉歌しやごか』からです。
『子夜呉歌』とは、もともとは東晋とうしんの時代、子夜しやという女性が詠んだ哀切な曲調の歌がそのはじまりとされ、長江の下流、呉の国に流行した歌の形式で、「楽府題がふだい」の一つに分類されています。「楽府題」になるということは、その曲調が良く、詩人たちの心をかき立てる主題なのでしょう。李白は、素朴で素直な心を映し出した古い「民謡」の形式を借りてこの詩を作っています。
技巧をらした詩よりも、素朴に、素直にあふれ出るような言葉の方が、禅語にはふさわしいように思われます。李白の『子夜呉歌』は、実は春夏秋冬の四首連作で、この詩はその中の、第三首、秋の歌です。他の三首と較べて、この秋の歌が一番スッキリと禅にマッチします。

長安一片の月
萬戸ばんこつ声
秋風吹いて尽きず
そうにこれ玉関ぎょっかんの情
いず れの日か胡虜こりょたいらげ
 良人りょうじん遠征をめん

(『唐詩選』)

唐の都、長安の夜空に、一片の月がかかっています...
そして、都の路地のあちらこちらからは、きぬたを打つ音がせわしなく聞こえてきます。
季節は、秋から冬へ...

秋の夜長と言いいますが、日没が早まり、めっきりと長くなった夜に、砧で着物を叩いて生地を柔らかくし、つやを出す。夜なべに精を出す女房たちの日常がそこにあります。
月夜といえば、静かに清らかな月の光をでながら物思いにふける、というイメージがあります。とりわけ詩情をき立てるのは、独り凝視ぎょうしする時の月の姿です。
しかし、ここでの李白の眼差しは、静かに夜空に輝く月ではなく、トントントントン、と活気に満ちた砧の音と、夜になっても休むことのない庶民の活きた日常に向けられています。澄み切った詩人の高雅な世界ではなく、戸外の月には目もくれず、ひたすら砧をうつ街の人々の、にぎやかでたくましい世界です。
しかし、

秋風吹いて尽きず
総にこれ玉関の情

と三句、四句と進むうちに、様子は変わってきます。
平穏な日常に活き活きと暮らす女房たちの心を悩ます愁いの影が、サッときざしてくるのです。
寒々として、時に荒々しく吹き抜ける秋風...厳しい冬は、もう目の前に迫っています。そして、心に思うのは、戦人いくさびととして徴用ちょうようされ、遙か彼方の遠征におもむき、安否もわからぬ夫のこと...

賑やかな砧の音は、戸外に絶え間なく吹き抜ける冷たい秋の風と、澄みきった夜空に皎皎こうこうと輝く純白の月と相俟あいまって、この詩を読む者に、遙か遠方の地、玉門関ぎょくもんかんで兵役に従事する夫への思慕をつのらせる女たちへの共感を、一層搔き立てます。

「玉関の情」:「玉関」つまり「玉門関」は、長安の北西3600里(約2000キロメートル)といいますから、これといった交通手段のなかった唐の時代においては、気の遠くなるほど遠い場所です。
男たちは、侵入を繰り返す異民族の討伐のために、遙か彼方のこの玉門関へと、危険な遠征に駆り出されるのです。
大切な人、愛する夫は、冷たいこの秋風に吹かれながら、長安の夜空を思い、一人澄みきった寒い夜空にかかる一片の月を見上げているのでしょうか?
寒くはないでしょうか? 寂しくはないでしょうか? 健康で、元気でやっているでしょうか?
嗚呼ああ、敵を平定して戦が終わり、愛する夫が無事に帰ってくる日は、いつになることでしょうか...一人寂しく砧を打つ手も、覚えず止まりがちになるのです。


しかし、こうした果てしない思慕、限りない思いは、何も一人だけのものではないのです。いうまでもなく、同じように、遙か彼方の危険に身をさらす夫や父、子供たちに思いを馳せる女性は大勢いたのですから。
都の路地のあちらこちらからいっせいに聞こえてくる賑やかな砧の音は、一人一人の、一打ち一打ちの、さまざまな思い、さまざまな願い、喜びと悲しみ、祈りを運んでいるのです。

長安一片の月...

わたしたちの思い、願い、祈り...悲喜こもごもの思いをよそに、都の夜空には真っ白な一片の月がかかります。月は、何も語らず、何も求めず、何も訴えません。ただ静かに、変わることなく、澄みきった光を投げかける。そしてその光は、都の家々をくまなく、分け隔てなく照らし出すのです。
愛する人を思い、気遣い、その無事を願い、平安を祈る...
ひたすらに心を尽くし、一心に...そのひたすらな一途いちずさこそが、無心に光を放つ、澄みきった月にふさわしい。
ひたむきに心を尽くすその先に、無心の光は輝く。そう、無心への道は、ひたむきさからはじまるのです。

松尾芭蕉翁に、

声澄こえすみて北斗ほくとにひびく砧かな

芭蕉『都曲』


という句があります。砧を打つ女房たちのうらみ、平安な日常を失った男たちの苦吟くぎんは、いつしかその音を澄ませ、北斗に響くような無心の音を奏でます。それは、芭蕉翁の強がりなのでしょうか?

芭蕉翁にはまた、吉野の山中で歌った見事な砧の歌があります。

ある坊に一夜を借りて、
きぬた打ちて 我に聞かせよや 坊が妻

芭蕉『野ざらし紀行』


「独り吉野の奥にたどりけるに」と、吉野の山中に踏み入った芭蕉翁は、杣人そまびとが木を伐音ばつおんと、遠くから聞こえてくる鐘の音を耳にしながら、世を捨てて隠れるように生きる人々の心に思いを寄せます。
この句に寄せて、芭蕉翁は記しています。


むかしよりこの山に入て世を忘たる人の、多くは詩にのがれ、歌にかくる。いでや唐土とうど廬山ろざんと言はむもまたむべならずや...


杣人たちは歌を詠むことはありませんが、世を捨てて、あるいは世から捨てられたかのように、多くのものを断念したその上で歌にしなければ表すことのできない世界に生きています。
芭蕉翁は、世を捨てて流離さすらい、歌に生きる自身の姿を、山中の杣人たちに重ね合わせながら、深い共感をもって、「山に入って世を忘れる」ことを思うのです。歴史の重要な舞台として、しばしば悲劇の舞台として歴史に登場する吉野の地には、どれほど多くの人びとの、いかほど強い思いが、深く深く沈んでいることでしょうか...
杣人たちは、おそらくはそのようなことを知りません。歌は無くとも、詩は無くとも、伐音の響くこの山中の寒村は、まさしく唐土の孤高の詩人・陶淵明とうえんめいが愛した絶景の景勝地、廬山ろざんではないか、というのです。


杣人たちの妻よ、砧の音を大きく響かせて、聞かせておくれ...


歴史は、芭蕉翁が愛したただ独りの女性として、寿貞じゅていという人の名を今日に伝えています。寿貞尼は「尼」とはいっても、ほんとうに出家したのかもわかりません。
元禄七年(1694)六月、上方への最期の旅行の途中にあった芭蕉翁は、京都嵯峨の、門弟・去来の別邸「落柿舎らくししゃ」で、この寿貞尼が深川の芭蕉菴で逝去せいきょしたとことを知ります。芭蕉翁の生命が尽きるのも、残り数ヶ月...芭蕉翁がこの世を去るのも、同じ元禄七年の10月12日のことです。

直向ひたむきな思いは心を清らかにし、祈りの心は、魂を浄化する...


きぬた打ちて我に聞かせよや坊が妻


砧の音は、どのような調べで響くのでしょうか...
思いは尽きません。

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