*禅語を味わう...029:君が為葉々清風を起こす...
為君葉々起清風
夏至も過ぎ、六月もはや、終わりにさしかかりました。
今年は、全国各地で梅雨入りが大幅に遅くなりましたが、暦は着実に進んで行きます。
季節は、夏本番...これからしばらくの間は、酷暑の毎日です。
さて、暑い季節になると思い起こされる禅の名句があります。
この句は、南宋時代の禅僧・虚堂智愚禅師(1185~1269年)の遺した語録『虚堂緑』が出典となっています。
虚堂智愚禅師は、この時代を代表する禅僧で、門下には、海を越えてこの虚堂禅師の許で学び、その法を嗣いで日本に戻り、日本の臨済禅の礎となった大応国師・南浦紹明がいます。この大応国師の門下から、大徳寺を開いた大燈国師・宗峰妙超、妙心寺を開いた無相大師・関山慧玄が出ていますので、虚堂智愚禅師は、日本の臨済禅の源流となる禅僧なのです。
ここで、この句の全体を味わってみます。
現代語にしてみるならば、このような感じになるでしょうか...
寒山・拾得・豊干、この三聖の芳躅を慕う□衍・行鞏 ・如珙の三禅師が、深く語り合うなかで国清寺を訪ねようと思い立ち、ここ鷲峰庵を旅立とうとしている。その澄み切った静かな心持ちを誰が知っていることだろうか。
別離を惜しんで門のところまで見送ると、門前の脩竹がサラサラと音を立てて、旅立とうとする彼らに向かって、清らかな風を起こしてくれた...
内容を取ることが難しいですので、ここで少していねいにこの偈を見ていきましょう。
「誰か知らん 三隠寂寥の中」...
「三隠」とは標題にもある、「衍・鞏・珙」つまり氷谷□衍(?~1267年)、石林行鞏(1220~1280年)、横川如珙(1222~1289年)の三禅師を指しています。この三人は、虚堂禅師と同じ松源崇嶽禅師(1132~1202年)門下の、いわゆる「松源派」と呼ばれる同門の後輩たちです。
「三隠」はまた、この三禅師が訪問しようとしている「国清寺」と深く関わります。
国清寺は、中国浙江省の天台山国清寺のことで、天台大師智顗(538~598年)の創建になる天台寺院です。
日本との関係も深く、伝教大師最澄(767~822年)、智証大師円珍(814~891年)、俊乗房重源(1121~1206年)、明庵栄西(1141~1225年)といった人がここを訪れています。そして、「国清寺」といえば、特に禅僧にとっては、寒山、拾得、そして豊干の「国清三聖」がすぐに頭に浮かびます。
禅の修行者にとっては伝説の存在と言える寒山・拾得は、生没年、伝記も共に不詳の風狂僧です。
名刹国清寺に住まいながら、僧侶らしい厳粛な威儀を示すでもなく、髪を伸ばし、ケタケタと大きな口を開けて哄笑する姿で絵に描かれます。
一介の修行者の端くれどころか、小僧っ子のように、寒山は巻物を、拾得は箒を携えた姿で描かれます。
そして、もう一人、虎を引き連れているのが、師とされる豊干和尚です。虎を引き連れるというのは、この人物が、人間の世界に属する者ではなく、人が踏み込むことのできない、苛烈な自然に属す者、異界に属する者である、ということを象徴しているのです。
修行者でありながら、修行者という型にもとらわれず、修行どころか人間らしいあり方にもとらわれないその姿は、世俗の塵を捨てて捨てて捨て切り、修行ということも、道ということも捨て切ってしまった、風狂というありかたの果て、いわば「人間性の極北」です。
虚堂禅師が、自身の庵を訪れ、そして今またその許を旅立とうとする年若い道友たち、□衍・行鞏 ・如珙の三禅師を「三隠」と呼んでいることから、風狂の極北である「国清三聖」を心から慕い、各地を行脚しながら修行に励むこの三人の同友の、真摯で清らかな志に深く共鳴していることがわかります。虚堂禅師は、憧れの国清寺を訊ねようとするこの三人の道友たちの姿に、「国清三聖」の姿を重ね合わせて見ているのです。
「話に因って盟を尋ね鷲峰に別れんとす」...
修行行脚の途次、この三人は、同門の大先輩である虚堂禅師の許に立ち寄り、そこで更に厳しい研鑽を重ねたことでしょう。その修行の中で、国清寺に赴くことを決めて、虚堂禅師に別れを告げるのです。
当時、広大な中国の大地を行くことには大変な困難と危険が伴っていました。当時の禅僧たちは、志を同じくする道友と共に行脚を続けていました。一度別れを告げた後には、再び相見えることが約束されていなかった時代、「別れを告げる」ことの意味は、今とは比べものにならないほど重かったのです。中国の漢詩に「別離」の絶唱が数多くあることは、当然のことだと考えるべきでしょう。ここでも、「鷲峰に別れんとす」という言葉は、万感の思いを伴っています。
「相送って門に当れば脩竹有り 君が為に葉々清風を起こす」...
よく知られている、この偈のクライマックスです。
虚堂禅師の偈は難解なものが多く、禅僧の世界ではその名が轟いているにもかかわらず、一般にはその句はあまり知られていません。この句は、おそらくは虚堂禅師の句の中で一番有名なものでしょう。
心の通った友との別れにあたって、別れがたい思いで門まで送りに来ると、一陣の風が吹き抜け、傍らの竹が、サラサラと爽やかな風を送る。揺れる竹の葉は、友を送るかのようだ...
別れというものは辛いものです。ましてや、再会を期すことが難しい時代にあっては、なおさらです。その別れがたい思いをサッと吹き清めるような一陣の風...
「君が為」という所が、この別離の歌の核心です。
「君が為」というのは、別れがたい思いを、あたかも手を振って見送るかのように揺れる竹の青葉に托して、比喩的に表現したのではありません。もちろん、そのように理解し、解釈することも可能です。しかし、そんなレトリックを入れる余地など、ここにはないのだと私は考えたいのです。
人生が大きく変わるような出会いと別れ...
その切実さには、「表現」など入る余地はない。レトリックなど施す余地はない。「君が為」の「君」とは、そういう存在ではないか? その人との出会いと別れに、言葉などいらない、言葉など、入る余地はない...そんな出会いと別れを経験したことはあるか?
この偈は「誰か知らん...」と始まります。すでに、ここにおいて、言葉では表現することができない心の世界が広がっています。この心の世界を知る者は、僅かしかいないのです。「寂寥」と虚堂禅師が呼ぶ、この心の世界。そこには、人生をかけて修行に生きるものどうしの、堅い「盟約」があります。そしてこの「盟約」は、契約ではなく、真摯な志によって結ばれているのです。
さて、この偈には、後日譚があります。
鎌倉時代に来日して、北条時宗の禅の師となり、円覚寺を開創し、円覚寺・建長寺の住持として日本の禅の発展の礎となった、仏光国師・無学祖元禅師(1226~1286年)は、修行時代に、この鷲峰庵に虚堂智愚禅師を訪ねて、問答を交わしているのです。
鷲峰庵は、虚堂禅師にとっては法の上の祖父にあたる、松源崇嶽禅師が眠っておられる廟所です。虚堂禅師は六〇代の半ばから七〇代にかけての足掛け八年の間(1249~1256年)、この鷲峰庵におられました。そして、二十代の後半から三〇代にかけての、若き日の無学祖元禅師は、鷲峰庵で虚堂禅師に教えを請うて、その学識の広さ、深さに驚嘆します。
この時、虚堂禅師は、この「送僧頌」を無学禅師に示しています。
この頌をじっくりと読んだ無学禅師は、虚堂禅師に向かって、この頌は「閒説」(無駄話)ばかりであり、「無些子禅」(少しばかりの禅さえもない)と厳しく批判します。
すると虚堂禅師はこの頌を声を挙げて示し、「這箇、聻(どうじゃ!)」と迫ります。
ここで、答えようとする無学禅師に向かって、虚堂禅師は真っ正面から顔の前でパッと手を振ったといいます。この瞬間、無学禅師は、ハッと悟りを開いたとされています。
青々とした脩竹が、サラサラと風に揺れます...
それが「あたかも~かのように」ということであるならば、この偈はただのレトリックの披露に過ぎません。そして、この別離の歌が、ただ別れの寂しさを歌うものであるならば、真情を吐露する一つの表現に過ぎません。もしもそういうことであるならば、無学禅師が言うように、この偈は「閒説」、無駄話になってしまいます。そして、この偈と睨めっこをして、言葉の中に意味を探るのであれば、どれほど頑張っても、やはりそれは「閒説」、無駄話になってしまいます。無学禅師の顔の前で、サッと手を振りかざす虚堂禅師は、「言葉についてまわるな」と端的に示しているのです。
この偈を読む時、自分の心の中に響くものはあるか?
この、自分の心に響くものこそが、もっとも大切なものであり、この偈の生命なのです。偈を活かすのは、言葉を生きたものにするのは、その言葉に呼応して自分の心の中に響く「それ」なのです。その「それ」を「這箇」と虚堂禅師は示しているのです。
這箇、聻!
どうじゃ! と虚堂禅師が迫る瞬間、間髪を入れず自分の心の中に呼応するものがあるはずです。のらくら生きていたのでは、この呼応するもの「それ」「這箇」は日常の関心事の底に埋もれ、埋もれして、いつしか見失われてしまいます。
この、間髪を入れず呼応するものを探り当てるのが、禅の修行であり、それを「己事究明」といいます。
大切な友との別れは、わたしたち人間の生命の儚さ、脆さを切実に教えてくれます。この切実さは、わたしたちが、日常の雑事の中で見失いがちな、大切なものを目覚めさせてくれるのです。
サラサラと風にそよぐ脩竹の清らかな風は、わたしたちが本当の意味で出会うということ、本当の意味で別れるということの難しさと、だからこそ、その出会いと別れがいかに尊いものであるかを教えてくれるのです。