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【筑後 大塚氏の研究03】 筑後肥前 戦国時代の大塚氏
前回までのお話で、少弐系大塚氏が南北朝時代から室町時代にかけて成立したことがわかりましたが、戦国時代になるとすでに「少弐氏家臣」やらその近辺に多数の大塚氏が広がっている状況になりました。
そのあたりの具体例は、北部九州の軍記物である「北肥戦誌」などに人名がたくさん出てくるので、これらの詳細については元ブログに列挙していますのでご参照ください。
さて、戦国時代にはすでに筑前から肥前にかけて大塚氏が広がっており、そのすべてが少弐軍団に属していたというわけでもなく、関係する諸武家にいろいろあって散らばっていたと見るほうがよさそうです。
細かいことを言えば、少弐から直接分かれた「大塚」だけではなく、別の由来があるのではないか?と思われる「大塚」氏も筑前から佐賀にかけてうろちょろしているので、すべての大塚氏が同族であるというわけでもなさそうです。
それらの中から、私のルーツを探り出すというのは、なかなか難しい作業と言わざるを得ません。ところが、そうしたいろいろな大塚氏があったとしても、特に佐賀を拠点としたものは、ある程度「龍造寺」「鍋島」氏に従わざるを得ないというか、最終的には佐賀藩に吸収されていったような気配があります。
そこで今回は、現在佐賀藩士として確認されている別の大塚氏に着目してみたいと思います。
それは、直接の鍋島家臣ではなく、肥前の地方武家であった「神代」氏の家臣であった大塚氏の系統です。(ただし、この大塚の由来については不明。少弐から分かれた後のものと推定される)
私が佐賀藩士大塚氏として確認しているものは2系統あり、ひとつは「武藤少弐興亡史」にて紹介された大塚系譜で、前回引用したものです。
この系統の特徴は、
■ 代々、「西○○守」を名乗り、大塚氏へ
■ 「大塚左京亮」を代々名乗る
というものです。『西氏系大塚氏、左京亮系大塚氏』と言ってもよいでしょう。
もう一つの系統は当初龍造寺と敵対していた神代氏の家臣だった大塚氏で、こちらは源流については記載がないものの、
■ 「大塚勝右衛門」の名乗りが多いと推測される
系統です。この系統も「北肥戦誌」にもよく登場し、「葉隠」でも一部言及があります。
問題なのは、神代家臣の大塚氏にはその源流についての記述がなく、今は便宜的に2系統に分けてはいるものの、根っこは同じかもしれないということです。現時点ではその謎をとく鍵は見つかっていません。
もし同じであれば、こちらも「西氏」が源流なのかもしれません。
ところで弘治4年(1558・戦国時代)のこと、神代勝利という武将が龍造寺軍と戦う場面で、龍造寺側に「倉町上総(野)介」という武将の名前が見えます。(北肥戦誌 巻14)この倉町上総介と思しき人物は、実は佐賀藩士大塚氏の系図に出てきており、
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家郷(大塚左京亮 初め西上総介)
<家郷より>
- 家国(西陸奥守 後に改め倉町上野介家直)
- 頼宗(大塚左京亮 実は馬場伊豆守頼経の子)
家光(倉町蔵人)
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大塚左京亮の系統が一時期「西上総介」「倉町上野介」などを名乗っていることがわかります。
ということはこの時点では、神代家臣の大塚氏と、少弐から龍造寺家臣となった大塚氏は系統が別だとわかるのですね。
(のちに神代は龍造寺家臣として吸収されてゆきます)
実は戦国時代ごろ、神代氏は「勝利」と「長良」という父子が活躍するのですが、父の勝利時代の家臣には、大塚氏が見当たりません。
神代氏は少弐家臣だったので、軍勢には「武藤」を名乗る者がいたりもしますが、なぜか大塚はいないのです。
永禄8年(1565)になり、勝利は病死、神代氏は長良の時代になります。この年計略によって龍造寺隆信は長良の拠点であった千布城、土生島城を襲うのですが、ここで長良を落ち延びさせるために「大塚隠岐守」が奮戦する、という話が登場します。
(島田入道鶴栖・大塚隠岐守・神代左京亮・神代左馬介・中野新十郎・古川新四郎・秀島伊賀守・福所大蔵・福島式部少輔・松延勘内らが長良家臣)
その後、神代氏は龍造寺家臣となってゆき、大塚氏も龍造寺家臣として続くことになるわけです。
注目すべきは、長良の家臣であった大塚隠岐守が結局どこから来たのか不明な点でした。この苗字そのものは、おそらくは少弐系大塚氏だとは思うのですが、明記はされていません。
しかし、神代家に仕えるようになったであろういきさつは「推測」することは可能です。
永正9年(1512年)にこんな記録があります。
『本荘淀姫神社奉再興、肥前州與賀庄本荘大塚大明神御宝殿一宇 大檀那太宰都督司馬少卿藤原朝臣資元 願主武藤書雲民部大輔藤原冬雪 宮司別当大塚新右衛門藤原重家 (或曰此家絶ゆ 今の大塚氏は與賀神社神官千布氏の次男 絶家を□き大塚と称したる者) 願主鍋島平右衛門尉清久 永正九年壬申蜡月下浣日、或曰伊勢松坂の人山田 (或は松本)五郎大夫則之 呉祥瑞と号す 明に航し磁工を学び永正十年帰朝し肥前伊万里に窯を開き、盛に其の業を修め遂にその地に没す』(出典 肥前旧事続編料)
これは佐賀市本庄の本庄神社についての記載ですが、
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■ 大檀那(檀家のいちばんえらい人)太宰都督司馬少卿藤原朝臣資元
少弐資元のこと。本姓の藤原を名乗っている。少弐氏16代の当主である。
■ 願主(祈願した人)武藤書雲民部大輔藤原冬雪
よくわからないが民部大輔は役職なので、本姓藤原氏の武藤書雲冬雪なる人物だと思われる。武藤氏であるので少弐氏であろう。
■ 宮司別当 大塚新右衛門藤原重家
当時は神仏習合だったので、神主さんと僧侶がダブル役割になっており、宮司が神主、別当が僧侶を意味する。 藤原氏なので、この流れでいくと基本少弐一族だと考える。
■ 願主 鍋島平右衛門尉清久
鍋島清久は佐賀藩祖「鍋島直茂(北肥戦誌でいう信生である)」の祖父。少弐氏孫であり、母方の鍋島姓を継いでいる。
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ということを勘案すると、ここに出てくるのはみな少弐一門であり、大塚氏も少弐系だと推定できます。(本姓藤原氏でもある)
そしてわざわざ注釈があるのですが、この大塚氏は途絶えており、千布氏が実際には後を継いで大塚を名乗っていることも書かれています。
千布氏は、神代氏と深い関わりがあり、実は神代勝利の奥さんは千布氏でした。そうするとDNA上は千布氏ですが、系譜の上では少弐大塚を継いだ氏族が大塚隠岐守の一族である、と推測することもできそうです。しかし勝利には大塚姓の家臣はいませんでしたから、完全に謎が解明されたわけでもありません。
ただし、少し気がかりなのは「本庄大塚大明神」が先にあって「大塚」を名乗ったのかもしれない点です。もし、本庄大塚ということばが先であれば、少弐系で別の由来の3つめの「大塚」氏が登場したことになるかもしれません。
由緒によると
「欽明天皇二十四年(五六三年)九月二十八日の夜、末次村の丹次郎が大塚妙見の松原にて神霊を感じ、領主小寺左衛門大夫に告げ、小寺左衛門朝廷のゆるしを得、社殿を造立す。以後、近郷の崇敬厚く、特に鍋島家発祥の地の氏神として、永正九年(一五一二)鍋島清久公が社殿を再興し、天文二年(一五三三)に鍋島清房公、慶長一七年(一六一二)に鍋島直茂公が社殿を修復、承慶元年(一六五二)から寛文三年(一六六三)にかけて鍋島光茂公が社殿を新しく造営した。」
”大塚妙見の松原”という地名が先に出ています。しかし、こうした由来は後付けのこともあるので、実際にはなんとも言えないところだと思いますね。
与賀神社の由緒では「小津郷の丹二という男が、小津西郷大塚里に出かけたところ・・・」となっており、いちおう話は合致しているようです。
しかし、「佐賀県神社誌要」などでは「佐嘉郡小津西郷に一社を建立して塚原大明神」とあり、すこし表記にブレがあります。
(つづく)