二つの容見天神
はじめに
久しぶりの投稿になりましたので、前回までの流れを軽く振り返りましょう。
現在の福岡市の中心部(博多区と中央区)の大部分は「那津」や「冷泉津」と呼ばれた遠浅の海で、日本最大級の貿易港だった時代もありました。
これまでこの海を守る神々として崇敬されてきた筑前國一之宮住吉神社と博多総鎮守櫛田神社について考察してきました。
それに当たっては、鎌倉時代の博多の様子を描いたとされる「博多古図」に明示された「容見天神」を取っ掛かりにしました。そこは大宰府に左遷された菅原道真公の上陸地点と云われ、現在は余香館という施設の敷地に「容見天神故地」の石碑が立っています(福岡市中央区今泉1丁目)。
ここを「那津」や「冷泉津」と呼ばれた港の中の狭義の「津」=船着場と仮定し、そこから見た住吉神社は春〜秋の日の出と朝陽を拝む方向、櫛田神社は北東=表鬼門に位置することを確認しました。
ということは、「津」=船着場を守る航海神の住吉神社には太陽信仰も重なっており、そのことはまた太陽神天照大御神の奉祀に始まる櫛田神社に船着場や港湾の守護も祈る信仰に繋がっていった可能性がある点に気づきました。これは、従前の信仰が後代に登場する社寺への信仰にも受け継がれ、織り込まれていく「承前」の発想であり、日本の各地の社寺の信仰にもよく見られることです。
しかし以上の考察は、「那津」という港湾の中の狭義の「津」=船着場の位置が「博多古図」の中の「容見天神」だとする私の仮定に基づくものです。今回はこの仮定が妥当かどうかについて改めて考えてみたいと思います。
なぜなら、「容見天神」がもう一つ別の場所にあることを知ったからです。
博多古図のトリック
二つの「容見天神」の存在に気づいたのは、「博多古図」に一種の違和感を感じたことがきっかけです。
下は毎回掲載してきた「博多古図」です。「日本第一住吉大明神」の岬の軸線の延長線上に「容見天神」と「平尾村」の表記が、拡大していただくとより良く見えます。
前回までは、この「容見天神」とは「容見天神故地」の石碑が敷地内に立っている福岡市中央区今泉1丁目の余香館という施設辺りにあったと仮定してきました。
●余香館(「容見天神故地」の石碑あり)のYahoo地図
https://map.yahoo.co.jp/place?lat=33.58398&lon=130.39896&zoom=18&maptype=basic
なぜなら、現在の水鏡天満宮(福岡市中央区天神1丁目)でも、旧社地は今泉1丁目の「容見天神故地」であり、江戸時代に福岡城の表鬼門に当たる現在地に遷座したと伺いましたし、また地図上で住吉神社本殿から余香館への直線は表参道に沿って延び、住吉大神誕生の霊地と云う天龍池の中央を通過するからです。
●筑前國一之宮住吉神社のYahoo地図
https://map.yahoo.co.jp/place?uid=8f391e07bdb59127cbc8ba1376147d01d721ae32&q=筑前國一之宮+住吉神社&lat=33.5859051&lon=130.4137033&zoom=14&maptype=basic
もし「博多古図」が地理を正確に反映しているならば、旧「平尾村」は住吉神社から余香館に延びる直線の延長線上にあるはずです。 しかし現在の福岡市中央区平尾は、この直線から大きく南寄りに逸れています。例えば西鉄平尾駅は住吉神社から南南西に位置しています。
●福岡市中央区平尾のYahoo地図
https://map.yahoo.co.jp/address?ac=40133&az=Mzg&lat=33.57492&lon=130.39493&zoom=14&maptype=basic
しかも尚、福岡市中央区平尾4丁目に御鎮座の平尾八幡宮の境内に平尾天満宮があり、そこもまた「博多古図」の中の「容見天神」と言い伝えられてきたのです。
●平尾八幡宮のYahoo地図
https://map.yahoo.co.jp/place?gid=OaUtIpbv552&lat=33.57461&lon=130.40035&zoom=17&maptype=basic
平尾天満宮の御由緒にはこうあります:
「天満天神又の名を容見天神との言い伝えがある神社です。(中略)…、昌泰四年二月京都を出発され、瀬戸内海を航海のあと三月博多袖港に入港された菅原道真公は、博多の街は如何なるものかと思われ高い丘より眺めるのが、最上と平尾山麓の丘の下に船を寄せられ、左遷の地に第一歩を印されたのが、ここ平尾天満宮の土地でした。(以下略)」
今泉1丁目の「容見天神故地」と平尾4丁目の平尾天満宮。「はたしてどっちが史実なのか?」と一瞬思いました。
ただこのようなケースは多々あります。古文書に出てくる「◯◯宮」とは現在の「△△神社」である、いや「□□神社」のことである、といった議論です。
こういう場合、私はロシア留学時代に知り合った畏友のある話をよく思い出します。それは、国際政治の研究者である彼自身が若かりし頃に某全国紙のベテラン記者から教えられたことだそうですが、「あり得ないと思われることが実際にあり得る可能性を徹底的に考えろ」、と云う言葉です。
この一言は私にとっても「座右の銘」となりました。信仰思想の探求においても、つまづいた時は何度もこの一言に助けられて道が開かれてきました。
私自身はこの記者と会ったこともなければ、顔も名前も知りません。畏友にこの記者の名を尋ねること自体忘れていたのが実際のところでした。
しかし今振り返ってみると、それはこの一言が持つ力に圧倒されたからでしょうし、またこの一言が持つ普遍性を無意識に感じ取ったのかもしれません。だから、この一言を発した人物が誰なのかは、私の中ではそれほど重要ではなかったのかもしれません。
横道に逸れてしまいましたが、今述べたような次第で、今泉の「容見天神故地」も平尾の天満宮もどちらも史実である可能性、すなわち「二つの容見天神」が両立する可能性を留保しておきたいと思います。
いったんこのような視点に立ってみると、「博多古図」や現代の地図に対して次々と新たな発見が出てきます。
その一つは、平尾天満宮がある平尾八幡宮の表参道は住吉神社の方に延びていることです。
以下は平尾八幡宮(福岡市中央区平尾4丁目10)と筑前國一之宮住吉神社(福岡市博多区住吉3丁目1)のMapion地図です:
●平尾八幡宮
https://www.mapion.co.jp/m2/33.57326436,130.4001454,16/poi=91821661_ipcbl
●筑前國一之宮住吉神社
https://www.mapion.co.jp/m2/33.58587967,130.41369924,16/poi=ILSP0000082423_ipclm
両方の鳥居マークを「キョリ測」機能を使って直線で結んでみてください。その直線は平尾八幡宮の表参道に沿うように延びることが分かります。つまりこれは、平尾八幡宮が住吉神社を意識して祀られていることを暗示しています。
尤もそれ以外にも意識されている地点は多々あります。そもそも神社仏閣の配置に偶然というものはないと思います。それらは単に幾何学的に決定されたものではなく、それぞれの地理的環境と歴史的背景、信仰思想が絡みあった非常に複雑なものです。かつて紙の地図であちこち直線を引いて調べていた頃は、やがて地図が真っ黒になり、何が何やら分からなくなってしまうというのが常でした。今はネット地図で調べますが、これまたあちこち直線を引いているうちに夜が明けてしまい、整理する間もなくパソコンを閉じるという日が続きます。当然投稿もできずに月日だけが経ってしまう状態に陥ります。
ですので、今回は平尾八幡宮の表参道だけ触れるに止めます。その他についてはご関心のある方が各々調べていただければと思います。あなただけの新発見があることでしょう!
平尾八幡宮の表参道は比較的急な階段になっており、降り切って石鳥居から出たところの公道も急な坂道になっています。そのまま道なりに降っていくと、右手に円龍寺というお寺があり、昔はその近くに平尾天満宮は祀られていました。
平尾八幡宮の石鳥居から200メートル弱で坂道を降りきることになります。そこから平坦な地形となり、さらに北東には薬院新川にかかる向陵橋、平尾北の交差点があります。
薬院新川は「博多古図」の中の「四十川」の名残で、平尾天満宮の御由緒から推察すると、昌泰四年(901)に菅原道真公は現在の向陵橋辺りで下船して、前述の坂道を登って平尾八幡宮が御鎮座の小高い丘に至り、そこから北側に広がる「那津」を眺望されたことになります。
ここで改めて前掲の「博多古図」は鎌倉時代の博多の様子とされる点に注意しましょう。鎌倉時代の具体的にいつかは不明ですが、道真公上陸から少なくとも約二百年は経過していたはずです。
その間に「四十川」に土砂が堆積していき、船着場が現在の薬院新川の向陵橋辺りからもっと下流に移っていったことが想像できます。その船着場の移転先の一つが現在の西鉄薬院駅北口の北に位置する姿見橋辺りだったのではないでしょうか?
●西鉄薬院駅ビルのMapion地図
https://www.mapion.co.jp/m2/33.58223567,130.4019483,19/poi=91839741_ipcbl
そしてこの近くの現在の今泉1丁目に二つ目の容見天神が祀られることになったものと思われます。
しかもその鎌倉時代の船着場に祀る容見天神の社地選定に際しては、航海神住吉神社の本殿→神門→表参道→天龍池の延長線にあること、そして櫛田神社が表鬼門に位置することが意識されたのでしょう。
また実地に住吉神社の社前にかかる住吉橋を渡り、そのまま出来るだけ道なりに進んでいくと、ちょうど姿見橋に出ることも確認できました。
こうしてみてくると、「博多古図」で「日本第一住吉大明神」の岬の軸線の延長上に「容見天神」と「平尾村」が位置しているのは、絵師の手抜きでも間違いでもなく、平尾と今泉の二つの容見天神の存在を念頭に置いた一種のトリック的な画法なのではないでしょうか?
このような描き方によって、容見天神が平尾の船着場近くの小高い丘に始まり、しかし二百年以上に及ぶ土砂堆積の結果、船着場は下流の今の西鉄薬院駅の北、今泉辺りに移転したので、そこに改めて容見天神を祀った歴史の流れを暗示することが可能になります。
時の流れとともに川に土砂が堆積するという自然の営みと、それに伴う船着場を移転させてきた人間の歴史が、菅原道真公への信仰を通して暗示されており、しかもこれらの変遷には航海神の存在も計算されていると考えられます。
先ほど神社仏閣の配置は幾何学的計算だけでなく、地理環境や歴史的背景や信仰思想が絡み合った複雑なものだと指摘したことについて、二つの容見天神を通して具体的な共感を抱いていただければ幸いです。
二つの容見天神の共通点と相違点
容見天神が平尾に始まり、自然と歴史の変遷に伴い、後に今泉にも分祀された可能性に気づきました。これは冒頭でも触れた「承前」の原則にも合致するものですが、単にそのまま継承されたのではなく、両者には相違点もあります。
最も顕著な違いは、平尾は小高い丘にあり、今泉は水辺にあったことです。これは次の二つの意味で注目すべきポイントです。
その一つは、容見天神が江戸時代に現在の福岡市中央区今泉から中央区天神に御遷座の際、社号が「水鏡天満宮」に変わったことに関係してくるでしょう。
「水鏡天満宮」の「水鏡」は道真公が博多に上陸の際に水面に映った御自身のやつれたお姿を嘆かれた「容見」に由来しますが、これは旧社地の今泉も水辺からすぐの平坦な低地であるという自然地理的な環境とも関係するものと思います。
それ以外にも「水鏡」が強調された信仰思想上の背景はありますが、それはまた後日別の角度から探求していくことにしましょう。
しかし水鏡天満宮に対して平尾天満宮の御由緒には道真公が水面にお姿を映して嘆かれたような記述はありません。むしろ博多の地形に積極的なご関心を示され、小高い丘まで登って来て博多を眺望されたのです。左遷の憂き目に遭っても尚、向学心が衰えぬ正に「学問の神」らしい側面が窺えます。
二つ目は、その平尾の小高い丘の中心に位置する平尾八幡宮の本殿から見た住吉神社の本殿は北東(約45度)に位置していることから、住吉神社は平尾の船着場の表鬼門を守る航海神として崇敬されていたことが想像できます。
ところが自然環境の変化により船着場が下流に移り、容見天神も平尾から今泉に分祀することになると、その社地は住吉神社の岬の軸線の延長上にあって、しかも櫛田神社が表鬼門に位置するように選定されていることを前述しました。
この櫛田神社を表鬼門に拝むという発想は、平尾の容見天神が住吉神社を表鬼門に拝む位置にあったことを踏まえているのではないでしょうか。
ここで住吉神社、櫛田神社、二つの容見天神の地形的特徴も踏まえて少し整理しましょう:
平尾の容見天神(小高い丘の上)→北東=表鬼門→住吉神社(岬の上)
今泉の容見天神(水辺の低地)→北東=表鬼門→櫛田神社(水辺の砂丘)
冒頭でも触れましたように、「那津」の守護神としての性格が航海神の住吉神社から、太陽神の奉祀に始まる櫛田神社に継承されていきましたが、その背景には、航海神と太陽神の兄妹関係だけでなく、平尾の表鬼門にとっての住吉神社から今泉の表鬼門にとっての櫛田神社へと、表鬼門守護の継承も具体的に期待されていたことが窺えます。
さらに、平尾の容見天神と住吉神社がともに丘や岬という小高い場所にあり、後代に船着場が下流に移った先の今泉の容見天神と櫛田神社はどちらも低地にあるという地形的な対応関係も興味深いです。
おわりに
今回はいわゆる常識的観点から「博多古図」に感じた「容見天神」と「平尾村」の「あり得ない」「非常識な」位置関係に違和感を抱いたこときっかけにして、「二つの容見天神」の存在に気づきました。
ただし両説のいずれが「史実」であるかどうかということよりも、「どちらもあり得る」という「非常識な視点」から見つめ直してみました。
そしてその「あり得ない」「非常識」が「実際はあり得る可能性」をできる限り追求してみた結果、「博多古図」にトリック的画法が用いられていたこと、しかもそれが「二つの容見天神」の自然と人間の営み(船着場)の相関的な変遷を反映していること、その変遷に当たっては船着場を守る住吉神社と櫛田神社との方位性も「承前」の原則に従って厳密に計算されていたこと等々、いくつかの可能性の新発見に繋がりました。
もちろんそれらは「可能性」であって、史実かどうかの検証ではありませんが、「博多古図」や博多の歴史にご関心のある方々にとって少しでも役に立つ面があったならば幸いです。
次回は菅原道真公が平尾の小高い丘から北側に広がる「那津」を眺望された様子を想像してみようかと思います。そうすることで住吉大神と天照大御神の関係性、東から昇って西に沈むはずの太陽の女神を真北に祀る伊勢信仰の意味、さらに鬼門とは何なのかなどついて、より明らかに見えてくるものがあると思うからです。
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