海原の虹霓に続く瑞祥
吉凶の分かれる虹
現代では一般に「吉兆」とされる虹が、実は凶兆の可能性もあると知ったことを前回の記事では触れました。
それはウィキペディアの「虹」の記事の、中世の貴族は虹が確認された時は陰陽道の天文博士にその吉凶を占わせた旨の記述にも明らかですが、虹と龍、市、墓の密接不可分と言ってよい関係に注目すると、このような「虹」の多義性は中世のみならず、古代、果ては縄文時代にまで遡ることができる点にも気付かされました。
龍女トヨタマヒメ(神武天皇の祖母)が市の傍と思われる渚でウガヤフキアエズ(神武天皇の父)をご出産の際、その姿を見ないようにヒコホホデミ(神武天皇の祖父)に求めてその約束を得ながら、結局は約束と違って見られてしまったこと、すなわちトヨタマヒメにとっては凶の展開となった神話の展開は、神話編纂当時も「虹」の多義性が意識されていたことを窺わせます。
また縄文・弥生の端境期の夜臼式土器の標識遺跡、夜臼貝塚が発掘された福岡県新宮町夜臼地区の高松神社の御祭神が市を主宰するカムオオイチヒメであり、縄文貝塚の貝殻の大半が市との深い関係性が古来意識されてきたハマグリであり、古代ではハマグリ=蜃は龍の胴体と考えられ、龍は虹の形でも姿を現し、その虹=龍が立ったところに市は開くものと考えられ、市での取引にも吉凶がある…という具合に、以上列挙した情報が一つの連環をなすことから、「虹」の多義性の観念が縄文時代に遡る可能性を指摘した次第です。
他に参考にしたサイトでも、虹に関する現代のポジティブな一般的通念とは裏腹に、ネガティブな意味合いが見出されてきたことも窺えます。
その詳細については後日触れていきたいと思いますが、とにかく虹の吉凶は人や時によっても分かれるものであることを指摘しました。
例えば、令和元年(2019)10月22日の今上陛下の即位礼正殿の儀の直前に虹が現れ、その絶妙のタイミグからマスコミやネットでも大喜びで報じられましたが、新しい天皇と新しい元号の下で心機一転のはずが、同年同月は消費増税、2020年は世界的流行病騒動に日本も巻き込まれ、非科学的「感染対策」で経済が大打撃を被り、2021年からは治験不十分な予防接種を全国的に展開し超過死亡数が急増、2022年からロシア・ウクライナ紛争に伴う対露経済制裁のブーメラン効果によりインフレが進行、さらに外圧による超円安に伴う物価高騰に令和の消費増税が相乗効果を発揮、2024年は能登半島大地震や航空大事故で幕が開け、天皇皇后両陛下の度重なる被災地ご視察にも関わらず復興が進まない異常事態が続いています。
他方、消費増税や円安、「感染対策」などの恩恵に浴しているごく一部の人々もいるわけで、今上陛下の即位礼正殿の儀の直前というタイミングで現れた虹は、人によって吉凶がはっきり分かれたように思われます。
ウィキペディアの「元号一覧」からは、江戸時代までは歴代天皇の御代替わりに限らず、天変地異や疫病、大事故、経済的困窮(しばしば飢饉)、戦乱など社会の凶相を祓うためにも改元がなされてきたことが一目瞭然です。
大多数の国民の健康と生活が悪化し続けているこの数年は、江戸時代までの感覚ならば、毎年改元してもおかしくないような状況に見受けます。
しかし、古くは瑞雲の発現や瑞獣の献上などを祝っての改元もありました。
そのような奇瑞は平穏な時だけでなく、国家、社会の混迷と同時期に発現したりもしました。
例えば、神護景曇は天平神護3年8月16日(ユリウス暦767年9月13日)に瑞雲の発現による元号ですが、当時は女帝称徳天皇を利用した弓削道鏡による皇位・皇統簒奪の動きが最大の政治問題でした。
「景雲」が具体的にどのような雲だったかは不勉強ですが、天孫降臨の地ならしをされた武甕槌命が瑞雲を想わせる白鹿に乗って御蓋山に来臨されて春日大社創建、宇佐八幡宮の託宣を騙った道鏡への譲位の企みが頓挫、皇統簒奪の危機の根本要因となっていた称徳天皇が崩御、道鏡は下野国に配流となったことから、「景雲」は危機に際していた皇統への神助を暗示するものだったのでしょう。
そして神護景雲4年10月1日(ユリウス暦770年10月23日)、天智天皇と紀橡姫との間にお生まれの光仁天皇が即位、瑞亀の献上により宝亀に改元されました。
さらに宝亀12年元日(ユリウス暦781年1月30日)、伊勢斎宮での美雲の出現により天応に改元、光仁天皇は同年4月に桓武天皇に譲位されます。
悠仁親王殿下ご成年に向けて続いた瑞祥
去る9月6日、悠仁親王殿下が満18歳の御誕生日をお迎えになりました。
18年前は小泉純一郎政権下で女性天皇・女系天皇も視野に入れた法改正が国会で審議されていましたが、2006年2月の秋篠宮妃殿下(現在の皇嗣妃殿下)のご懐妊によって同審議は頓挫、男系男子による皇位継承の制度が護持されました。
皇嗣妃殿下は本日めでたく御誕生日をお迎えになりましたが、悠仁親王殿下のご懐妊とご出産以来、皇嗣妃殿下に救国の女神の姿を見てとる日本人も少なくないでしょう。
それでも尚、神武天皇以来2700年近く続く男系皇統の断絶に向け、女性皇族、特に敬宮愛子内親王殿下を利用しようとする動きは未だ続いています。
一部週刊誌やネット上では皇嗣御一家に関する根拠の疑わしい情報やあからさまな誹謗中傷に溢れていますが、神社関係者など皇嗣御一家と直接接したり、お姿を直接目にする機会のある人たちから聞く情報にはまったく別の印象を受けます。
例えば、春日大社若宮神社の式年造替で修復後の御本殿に御祭神がお還りになる本殿遷座祭(2022年10月28日)にご参列の佳子内親王殿下について、長時間の着座中ずっと背筋をピンと伸ばしたまま、つま先まで微動だになさらなかったと、同祭典に参列した知人はとても感銘した様子で話して聞かせてくださりました。
当時の佳子内親王殿下のお姿は、祭典の様子を伝える番組を視聴できなかったので、宮中歌会始や講書始の儀などの映像からイメージするしかできませんが、奈良の10月下旬の夜の実質屋外での祭典ですので、寒さなども考え合わせると、私にはとても真似できそうにもありません。
最近では、悠仁親王殿下の御誕生日に合わせて小泉純一郎元首相の次男、進次郎衆議院議員が自由民主党総裁選に出馬を表明したことも政治的観点から偶然とは思われませんが、高天原におわす皇祖天照大御神に対する文字通り天に唾するどんな企みも、しっぺ返しに遭うことは間違いないでしょう。
そのことに確信を強めているのは、ここ最近言及してきましたように、弘法大師空海が開いた日本最初の真言寺院の東長寺(福岡市博多区御供所町)で弘法大師忌の法要が行なわれた7月21日夕刻の博多上空に水平に延びる虹が出現し、不動明王縁日の8月28日には台風10号接近中に関わらず福岡市の上空が晴れて同市東郊から虹が立ち、同夜の九州上陸時に台風の目が消滅、そして東長寺の釈迦如来護摩法要の少し前の9月1日正午すぎに台風10号の消滅が公式発表されたからでもあります。
ちなみに、悠仁親王殿下の御印は弘法大師が真言宗根本道場が開いた紀州高野山の高野槙です。
毎年9月6日は悠仁親王殿下の御誕生日を奉祝する意味も込めて神社参拝をしており、今年は皇祖天照大御神、須佐之男命、大幡主大神を祀る博多総鎮守櫛田神社に向かいました。
当日は晴天に恵まれ、雲もほぼ見られませんでしたが、最後に末社の白龍権現社への参拝を済ませて帰る間際には、トグロを巻いた状態から立ち上がり始める瑞龍を筆で描いたような雲が現れていました。
東長寺の五重塔建立の折、五重塔を白龍様が守っておられると云うある真言僧の話を聞き及んで以来、江戸時代は東長寺が別当を勤めた櫛田神社の白龍権現社への信心も篤くなり、この雲にも感慨深いものがありました。
櫛田神社から帰る間際に知人女性を見かけたので挨拶をすると、福岡県新宮町の相島近海で撮った写真を以前差し上げたことに、再びお礼を言われました。
それは、今年7月3日が甲辰年戊辰日で二つの辰が重なることを意識して、約2年ぶりに龍女トヨタマヒメが鎮まる相島に渡島中、初めて目にした海原を這う二重の虹=虹霓(雌雄の虹)の写真のことです。
相島はトヨタマヒメ(海神の娘)とヒコホホデミ(山幸彦)との出会いの島ともされ、島内には二神を祀る高妻神社や、出会いの場に立っていたと云うユヅカツラも祀られており、相島近海に現れた雌雄の虹は、神話の中で海を渡るヒコホホデミと海神の宮に住んでいたトヨタマヒメの雌雄の龍に準えたくもなります。
この写真は他にも何人かの知人、友人に贈りましたが、櫛田神社で会った知人はこれを神棚に飾り、特に幼い孫娘が気に入って「ここイイ!ここイイ!」といつも指差しては行きたがると語りだしました。
社会通念や常識や先入観などに囚われない幼子の純心な評価に、望外の喜びを覚えたと同時に、あの虹霓はやはり吉兆だと判断しました。
実はその写真を差し上げたのは、東長寺の弘法大師忌法要に知人も私も参列した7月21日の夕刻に博多駅上空に「水平虹」が現れた少し前のことでした。
ですので、高野槙が御印の悠仁親王殿下の御誕生日に皇祖神にお参りして帰ろうとしたタイミングで姿を見せたその知人からお孫さんの話を聞いたことで、あの日の「水平虹」も皇統の弥栄を暗示する吉兆だったのだろうと考える次第です。
確かに、その7月21日から1週間以内の7月26日と27日に皇嗣殿下と皇嗣妃殿下がインターハイ(全国高校総合体育大会)開会式ご出席のため福岡県をご訪問になるという慶事があり、続く28日は東長寺の不動護摩に参列後に境内を巡拝中、同じく毎月28日が御縁日の大日如来(皇祖天照大御神の本地仏)を祀る五重塔の裏扉付近に、悠仁親王殿下がご幼少の砌からご関心をお持ちのトンボがとまっていました。
この場所にトンボがとまることなど珍しくなく、取り立てて何の意味もないはずだと考える人々も少なくないでしょう。
しかし過去十数年もの間毎月1〜2回は東長寺に参拝し、ほぼ毎回五重塔やその裏の歴代黒田藩主のお墓も巡拝している者として言わせていただくと、五重塔参拝のタイミングでトンボやチョウなどがとまっている姿を目撃することは、前もあったかもしれませんが、そのような記憶が定かでないほど稀なことです。
本稿で述べてきた海原の虹霓に続く水平虹の出現や台風10号の減衰と消滅などの節目節目の出来事の流れを踏まえると、スマホとデジカメで何枚も写真を撮るのを許していたトンボの姿に、何らかのメッセージ性を感じざるを得ません。
その日の夕刻は日本三大八幡の一つ、筥崎宮(応神天皇、神功皇后、玉依姫命/福岡市東区箱崎)の夏越祭に初めてお参りしましたが、地下鉄箱崎宮前駅を出るとすぐ、参道の中央に向かいつつあった夕陽を目にしましたので、まず箱崎浜に行くことにしました。
昔はこの参道の中央に沈む夕陽を遥拝する「夕陽(せきよう)」というお祭りがあったと田村邦明宮司から伺ったことがあり、もちろんその時々の天候でお祭りの度に必ず「夕陽」が直接見えるとは限らなかったでしょうが、この日は志賀島の奥の玄海島の南端に沈む「夕陽」をじっくり拝むことができました。
筥崎宮御本殿に発する参道の中軸線を延ばすと、海人阿曇族の本拠地、志賀島の南ノ浦岬の南を過ぎ、玄界島のほぼ南端に位置する小鷹神社(イザナギ・イザナミの二神と鷹の緑丸)の境内の北辺に至ります。
もう何年も前の筑前國一之宮住吉神社(福岡市博多区)の名越大祭の祭典終了後の横田昌和宮司の挨拶で、禊祓とは両親、祖父母、曽祖父母…と遡って先祖に思いを馳せることでもあり、そして家系や民族だけでなく人類の先祖である海洋生物やそれ以前に遡ってみる必要がある旨のお話がありましたが、志賀島の志賀海神社の御祭神はイザナギノミコトが禊祓において海底から海中、海面へと浮上する過程で顕現された綿津見三神であり、玄界島の小鷹神社のイザナギ・イザナミの二神は私たちの先祖を含む神々の「太祖」です。
こうしてみると、筥崎宮→箱崎浜→志賀島の南の海→玄海島の小鷹神社のラインで拝む「夕陽」のお祭りと筥崎宮の参道自体が、旧暦の水無月の晦日に祖先神に思いを馳せながら行なう夏越(名越とも)の禊祓も意識したものだったと気づきます(今年の7月28日は旧6月23日)。
そして筥崎宮の神功皇后と応神天皇の母子神、海神の娘であり神武天皇の母神の玉依姫も、天照大御神を始めとする皇祖皇霊が海神の宮と太祖神の鎮まる玄海島に向かわれるご様子を、私たちとともにご覧になるという意味も「夕陽」のお祭りにはあったかもしれません。
現代人より生活が自然環境に大きく左右されるため五感もはるかに鋭く、自然界の現実を「専門家」を通さずに自分自身の経験を通してよく弁えていた昔の日本人は、個々の自然・天文現象や鳥獣類の現れをその色や姿の珍しさだけでなく、遭遇のタイミングなども考慮して、瑞祥か否かを判断してきました。
自然崇拝の日本の信仰思想を探求する上では、先学の業績を参考にするのも大切ですが、それらに囚われることもないよう、なるべく自然の中に身を置いて、自分の耳目で実物を観察し、昔の人々が持っていた感覚を共有できるような経験を重ねていくことが極めて重要です。
お釈迦様が御生誕直後に七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と仰ったとされる一見非現実的な伝説は、著名人や権威ある肩書きの専門家らの意見に盲従せず、彼らと比べて自分が後天的に得た知識がたとえ「幼児レベル」でも、年齢や性別、地位、資産、世評などに関係なく、自分自身も含めて誰もが先天的に備える仏性と直感を最も尊重する自立した精神の大切さを説いているのだと思います。
前も指摘しましたように、一見非現実的な内容の伝説は、登場人物を特別視し、神格化するための修飾というより、あえて非現実的な表現をすることで、信仰思想の要点に人々の注意を喚起する「暗号文」だと考えられます。
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