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カルトのカラクリと脱カルトへの方途
1.「カルト」と「オカルト」の混同
前回は現代社会のカルト的状況と自由民主党総裁選について述べましたが、そこで最も強調したかったのは、「カルト」が「崇拝」を意味するラテン語に由来することです。
カルト(英: cult)は、ラテン語のcolo(動詞:耕す)から派生した cultus (名詞:耕作、世話、崇拝など)を語源とする言葉である[1][2][3]。フランス語(仏: culte)では、宗教の宗旨別を意味し、学術用語としてはカリスマ的指導者を中心とする小規模で熱狂的な会員の集まりを指す[4]。現在では、宗教団体を中心に反社会的な組織や団体を指して使用される[4][5][6][7]。
しかし、現代日本では「カルト」とは例えば、非常識で迷信的な教義を盲信し、反社会的行為に及ぶ集団のような意味合いで受け止められがちです。
これは、確証のない非科学的現象の実在性やその意味づけに関する言説を信じることのように理解されがちな「オカルト」という言葉が、「カルト(=崇拝)」と語感が似ているために混同されていることが背景にあると思います。
ウィキペディアによると、「オカルト」は「隠されたもの」の意味のラテン語に由来し、「秘学・神秘(的なこと)・超自然的なもの」を指すものの、日本では「怪奇・異様」な印象を受けるものを広く含む雑多で曖昧な言葉になっています。
オカルト(英語: occult)は、秘学・神秘(的なこと)・超自然的なものをさす用語[1]。オカルティズム(仏: occultisme、英: occultism、独: Okkultismus)、神秘学、隠秘学(おんひがく、いんぴがく)、玄秘学[2]とも。日本では西洋の用法だけでなく、「怪奇・異様」な印象を受けるものを広く含む雑多で曖昧な言葉としても使われている[3]。
確かに教祖の非常識な内容の教義に洗脳され、非常識に高額な仏壇や数珠、御守りの類や各種の開運グッズ、教祖の書籍などを購入し、時に勧誘や一部の信者への監禁や暴行、傷害、殺人、さらには猟奇的儀式など反社会的な犯罪にまで及ぶ集団が一般社会から見て閉鎖的な環境で活動する傾向にあることから、「カルト教団」の「カルト」が「オカルト」と混同されるのもある程度無理もないでしょう。
尤も「カルト」は言語学的な定義の他に社会学的観点からの定義もあり、後者の定義からすると上記の理解も正しいでしょうが、それはあくまでその定義が妥当なことを前提とした場合であり、物事を根本的に見つめ直すに当たって、諸説に左右されずに自分の頭で考えるためには、まずはそもそもの意味に立ち帰ってみる必要があると思います。
「カルト」と「オカルト」が混同されている要因の一つが、外来語を和訳せずに、安易にそのまま使用している現代日本の悪癖です。
元々はあまり馴染みのない外来語が、異国情緒な語感が魅力的だとか、日本語に適切な訳語が存在しないといった理由で、そのままカタカナ表記される傾向がますます強まってきています。
通訳と翻訳を生業としてきた経験から、この問題について思うことは多々あり、いずれ別稿で詳述したいと思いますが、一つだけ結論めいたことを言えば、外来語の安易な使用は言葉の本質的理解を放棄する思考停止に陥り易く、その意味に相当する物事の本質あるいは負の側面を覆い隠し、外来語の表す物事の受容が不利益ももたらしうる危険性を隠蔽する働きもするのです。
はたして、前出ウィキペディア「オカルト」の記事が指摘するように、日本では「オカルト」という外来語が「怪奇・異様」な印象を受けるものを広く含む雑多で曖昧な言葉になってしまったわけです。
そのような安易な外来語の使用が「カルト」と「オカルト」の混同ももたらしているのです。
「カルト教団」の本質として教祖や指導者の「個人崇拝」を挙げましたが、日本では「カルト教団」をなぜか「個人崇拝教団」と呼びません。
また「カルト」という外来語を受容したにもかかわらず、なぜか「個人崇拝」を「個人カルト」と言い換えることもしていません。
ちなみに、私が「カルト教団」の本質が教祖や指導者への「個人崇拝」にある点に気がついたきっかけは、ロシア語で「個人崇拝」のことを「культ личнонсти(=クーリト・リーチナスチ)」と謂うことをロシア在住時代に知ったからです。
「クーリト」は「カルト」のロシア語読み、「リーチナスチ」は「個性」「人格」などの意味で、両者合わせて「個人カルト」と訳すこともできます。
このようにロシア語では「カルト」集団の本質が、その集団内での「個人崇拝」であることが明確にされています。
実はウィキペディアの「個人崇拝」の記事でも、英訳は「Cult of personality」とあります。
個人崇拝(こじんすうはい、英: Cult of personality)とは、個人を崇拝の対象に据える政治的行為、またはその様式である。
ソビエト連邦指導者ニキータ・フルシチョフが1956年に「個人崇拝とその諸結果について」(ロシア語: О культе личности и его последствиях)と題された秘密演説で前指導者ヨシフ・スターリンの政治体制をこう定義したことで広く知られるようになった[1]。
しかし「カルト教団」の「カルト」を、前述のように日本では「雑多で曖昧な」用法が広まってしまった「オカルト」と混同し、「カルト教団」とは「怪奇で異様な」「神秘主義」「秘密主義」の一般社会から「隠れた」または「隠された」教団という側面が強調されています。
閉鎖的な活動をしているという点では「神秘教団」「秘密教団」「隠れ教団」の意味合いも表面的には妥当なように思われますが、その表面的な印象もそもそもは教祖やカリスマ指導者への「個人カルト(=崇拝)」に起因しているのです。
2.「オカルト」性を帯びる「個人カルト」と優生・選民思想
一般社会から「隠された」閉鎖的な「カルト教団」の教祖やカリスマ指導者は、実は神仏に特別に「選ばれた」「優れた」「救世主」「神使」「神仏の化身」などとされ、その到達した真理や真実、教えはあまりに崇高なために、普通の人々にはなかなか理解されず、それどころか「異端者」として迫害され、弾圧されている…などと美化して信者の「崇拝(=カルト)心」をさらに煽ります。
さらに実は信者も教祖や指導者ほどではないものの神仏に特に選ばれた、それも勉学や仕事の能力に関係なく「霊格が高い」者であり、だから物質中心主義の現代社会では異端視、迫害、弾圧される恐れがあるので教祖や指導者を中心に信者間の結束を強めるべきだと一体感を強調する一方、それでも善良で真理や真実に覚醒した信者は社会の救済のため、新たに信者を増やして教勢を拡大すべきであり、ただそれには教団の維持が前提となるので教団への奉仕に努力する義務があり、その努力を怠り、他宗に興味や関心を寄せたり、改宗したりするのは背教や裏切りなどとされます。
しかし裏切り行為は裏切り者のカルマの蓄積にもなるので、善良な選ばれし者である信者は裏切り者のカルマ解消に協力すべく裏切り者の反省や改心を迫り、極端な場合は集団暴行や殺害に及んでも、動機によって正当化されたりします。
以上の、宗派を問わず「カルト教団」に特徴的な発想の根底には、教祖・指導者も信者も程度の差はあれ神仏に選ばれた「選民」であり、それは(他の人々より)「霊格が高い」など教団内の価値観による「優生者」として「前世」から「今世」や「宇宙」から「地球」に転生してきた、とする選民思想と優生思想があることが見て取れます。
しかも「選民」と「優生」のどちらか一つではなく、両方を併せ持つ存在である点が肝要です。
「選民」という概念は何らかの「基準」や「尺度」の存在を前提としていますが、その「基準」「尺度」が後天的な努力でクリアすることができるものならば、努力次第で「選民」になることもできるはずです。
しかし「優生」は先天的であって、後天的努力では超えられないものだからこそ重視され、二重の意味で「選ばれし者」という感覚を強めることになるからです。
それは、ある難関大学の二人の学生のうち一人は特に勉強もせずに入試に合格、もう一人は一生懸命努力してようやく入学を果たした学生の違い、または同じ名門大学の学生でも一人は名家、もう一人は庶民の生まれという出自の対比にも喩えることができます。
こう理解すれば、教祖やカリスマ指導者が「選ばれし優生者」ゆえに「カルト」(崇拝)の対象になる理屈の根底には選民思想と優生思想があり、しかも「選民」は「優生」に由来していることがより明らかになってきます。
しかし一般社会から見て閉鎖的で異端視されている「カルト教団」の「カルト」(崇拝)の対象となる教祖や指導者の「優生」は、必ずしも既存の社会通念から見た「優生」とは限りません。
教祖やカリスマ指導者はむしろ、両親の貧困や不和、本人の社会的不遇や心身の障害などの大難を背負っていたものの、それを神仏の助けなどの「神秘的体験」を経て克服したり、そもそもこれらの大難が実は神仏によるお導きだったとする稀少な宿命・運命が占術で証明・予測されたりなど、現代社会の基本的価値観と異なる形で「優生」とされるようです。
それは一般の信者にもある程度該当し、信者の人生における苦しみはしばしば、既存の社会システムから利益を受けることが困難な状況に起因しており、それゆえに「カルト教団」の教祖や指導者、他の信者らに共感を覚え、コミュニティの中に取り込まれていく傾向があります。
つまり「カルト教団」においては、既存社会の通念やシステムからの逸脱やそれに伴うさまざまな困苦がまずあり、しかしそれは実は神仏の深遠なお導きだったとされ、教団との機縁を得たことがその証であり、それらすべてが、(教祖や指導者よりランクは下ですが)信者の「選民」の証だと見なされがちです。
3.現代社会と「カルト教団」との共通点
しかしこのような考え方は現代社会ではなかなか認められず、困苦にはそれなりの現実的な原因や理由があり、その困難の解決法は「成功者」に学び、本人自身の努力によって克服すべき「自己責任」の問題とされ、神仏や宗教に頼るのは「他力本願」や「迷信」だと云われがちです。
こういう考え方が現代で「正論」とされる背景については後日改めて考えたいと思いますが、そもそも一見すると「正論」と思われる考え方もいろんな条件や前提があっての話であり、それらがなければ有効ではない「正論」も結構あります。
例えば「過労死」という言葉もあまり聞かれなかった頃の日本は高度経済成長を遂げて「一億総中流」とも呼ばれていたのが、貧困率がどんどん高まってきた昨今は自嘲気味に「失われた30年」と呼ばれていますが、海外での留学や仕事の経験から言えば、現代的な文明生活に必要なモノやサービスを生み出す上での日本人の作業遂行能力が世界的に見てトップクラスにあるのは間違いなく、近年の日本人の労働生産性が低いとする言説は、その根拠とされるデータ項目に何らかの意図的な偏りがあり、「専門家」は自分の目で日本と海外の現場の働きぶりをよく見ずに、特定データの比較に終始する視野狭窄に陥っている可能性も疑っています。
口を開けば「グローバル化」の時代に、海外より日本人の方が平均的に作業能力が明らかに高いのに、米ドルベースでの賃金水準が相対的にどんどん低下している状況は異常であり、その原因は労働者の資質や能力ではなく、別のところにあると考えるのが合理的ではないでしょうか?
さもなくば、勉学や勤労が富につながるとする「正論」に基づく社会システムを否定することにつながるはずです。
そもそも「正論」がさまざまな条件に左右されない普遍性を持っていたならば、過去30年もの時代が失われることはなかったのではないでしょうか?
そういう「正論」が問題の解決につながらなかったような人らが、ややもすると別の価値観に基づく「正論」を掲げる「カルト教団」などに流れていきがちです。
しかし現代社会でいまだ当然とされる「正論」と「カルト教団」の中で通用する「正論」が表面上は相入れないかのように見えますが、実はそれぞれの「正論」を主張する「著名人」「専門家」「成功者」も、「教祖」や「指導者」も、「正論」を聞かされる庶民や信者からすればどちらも「権威的存在」であることが共通しており、その「権威」は「成功者」や「教祖」らを「選民」のように「優秀」であると思い込む心理に依拠しているのです。
つまり、既存社会の「成功者」も「カリスマ講師」「カリスマシェフ」のような呼ばれ方で、無意識的に「カルト教団」の「教祖」や「カリスマ指導者」らと同じ「カルト」(崇拝)の対象となっているのです。
「社会的成功者」を庶民が、「カルト教団の教祖」を信者が、どちらもそれぞれの理屈で「優生の選民」だと思い込んでしまうのは、どういうカラクリによるものでしょうか?
このカラクリには二つのポイントがあると思います。
その一つは、「成功者」や「教祖」からは「常に正しい知識や情報、解釈」などを受け取ることができ、それによって自分も「成功者」になったり、開運や幸福な人生に導かれるなどの広義の「利益」に与る可能性がある、と庶民や信者が信じていることです。
確かに彼らの話す内容は、管見ではほとんどが「正論」であり、そこに彼ら個々人のオリジナリティを感じさせる「目から鱗」の要素も追加されています(むしろ後者がなければ、ありきたりの話で終わってしまうでしょう)。
二つ目は、「成功者」や「教祖」の思想をまだほとんど知らないにも関わらず、最初から「常に正しい知識や情報、解釈」を受け取ることができそうだと期待するケースもよく見られますが、そういう高評価がすでに何処かから広まってきているからです。
つまり「宣伝」「広告」「口コミ」が行なわれてきているからです。
善意で無償の口コミや広報もありますが、金銭的・経済的利益を得ることや、人々を政治的に動かすことを目的とした宣伝もあります。
宣伝や広告、口コミが目的はどうであれ有効になるためには、発信者が受信者にとって信頼、信用されていたり、すでに権威を持っていることが重要です。
発信者が無名やすでに悪名を馳せている場合はその発信する情報は信用されず、広告宣伝の対象となる人物やモノ、サービスの印象悪化につながります。
マスメディアや有名企業、著名人らが関係する広告宣伝には概ね好感を抱くのに対して、広告の発信者が無名だったり、見た目が良くなければ、広告対象のモノやサービスの質がいくら良くても広告効果は上がりません。
また大規模・一方向発信ではなく、個人や少人数間の小規模・双方向的な情報のやり取りが行なわれる状況でも、発信者の信頼、信用、尊敬されていることは一層重要ですが、具体的な個別の人間関係をベースにしており、受信者が信頼している発信者からの宣伝情報を信じ易く、また受信者がその情報を他者に転送、拡散する発信者にもなり易く、それによって宣伝の影響力は大規模・一方向発信よりも深く強くなります。
複数の知人、友人同士の会話で、ある商品を使ったら良かった、といった口コミ情報は、特に無償で善意の情報であることも相まって真実味が増し、情報の受信者がまた無償の善意でもって他の知人や友人に伝達することも多く、結果的に非常に有効な宣伝となります。
さらに現代では、口コミで受信したモノやサービスに関する情報をSNSで不特定多数に発信することも当たり前で、大規模・一方向の宣伝と個別・双方向的な宣伝の連結が顕著になっています。
4.「個人崇拝(=カルト)」を生み出す「スターシステム」
以上のことはモノやサービスだけでなく人物についても当てはまります。
ある人物についての評価や人気が高まるのは大規模・一方向の情報や宣伝だけでなく、少人数のコミュニティにおける個別的、双方向的な口コミの方がより効果的だったりします。
そうしているうちにある個人についての高評価がやがて「カリスマ◯◯」などの称賛にグレードアップし、さらに「崇拝」=「カルト」へ無意識的に変わっていくことも多いようです。
つまりこれは「カルト教団」の教祖や「カリスマ指導者」に限ったことでなく、さまざまな分野の人物についても同じなのです。
そして「高評価」「大人気」「カリスマ」などの形容詞が用いられる広告・宣伝は芸能、スポーツ、宗教その他のビジネスに活用されますが、政治にも応用されるのは当然です。
ある政治家が報道の対象となる場合ほぼ毎回「国民的人気のある」の一言が枕詞のように用いられたり、先日の自由民主党総裁選の序盤で有力視されていた政治家が他候補と比べてすべての点で優位にあるかのような「スペック表」を出して世論の誘導が試みられたりします。
最近辞任に追い込まれた斎藤元彦前兵庫県知事に関する同県内での告発の真偽を私自身は調べてはいませんが、行政関連の各種ポスターなどに斎藤氏の写真が芸能タレントのように掲載されているのをいくつも目にすると、宣伝広告で特定人物について大衆に好感を抱かせ、その言動を無批判に支持させる「スターシステム」が働いていたことは確かです。
ちなみにこれは、旧ソ連を含む社会主義諸国でよく見られる光景であり、何かにつけ「個人崇拝(=カルト)」の対象である独裁者への言及(賛辞)が求められ、それが何かの手違いで抜けたりすると大問題にされます。
ロシアに長年住み、ロシアや旧ソ連諸国の各地を仕事や観光で旅した経験を基に言えば、斎藤氏の写真入りのポスターなどが目立つことと、兵庫県の職員や議員らが訴える同氏の「独裁的」で「強権的」なあり方は、独裁者に対する「個人崇拝」が特徴的な一部の国々では典型的なワンセットの現象であるため、斎藤氏への批判にはまったく根拠がないとする主張の方が私には疑わしく思われます。
兵庫県の職員や議員らの斎藤氏批判を事実無根とする前提で、同氏の知事再選に有利なネット記事を投稿するライターの募集広告が発見されてSNS上で拡散されていますが、街頭で同氏が県民から支持、応援の声を聞く動画も、テレビ番組のロケ同行通訳をした経験からすると「偶然を装った演出」が疑われ、まさに社会主主義諸国の権力闘争で一度敗れた政治家の「名誉回復」プロパガンダにそっくりなだと感じます。
「スターシステム」とは、2012年から昨年末まで私も記事を連載していただいていた文明地政学協会(東京)発行の『世界戦略情報 みち』の中で、常連の執筆陣の一人、安西正鷹氏の記事で知った言葉であり、元々は「◯◯式スターシステム」と「◯◯」の中に某広告代理店の社名が入っていました。
その社名には象徴的な意味合いもありますが、具体的な社名を出すと関心がそれに逸れてしまいがちですし、本稿で取り上げたいのは「スターシステム」の本質的側面であり、具体的な社名は今後他の社名にも代わり得るものですので「◯◯式」は省いています。
「スターシステム」という表現は安西氏の記事からの借用ですが、「個人崇拝システム」または「個人カルトシステム」と言い換えると、その本質がより明瞭になるでしょう。
各種メディアの広告宣伝で特定人物について大衆に好印象を抱かせることに成功すると、以後大衆はその人物の言行を内容も吟味せずに支持、賛同するようになる傾向があります。
しかもその特定人物が発する言葉は、具体的な論理と内容で大衆に訴えかけるのではなく、大衆が好印象のムードに快感を覚え、酔いしれるように広告企業が用意した作文である場合が多いです。
外見が好印象の特定の人物が広告企業の用意したムード優先の美辞麗句を連ね、それを各種メディアが好意的に報じることで、大衆はその人物が出るテレビ番組をついつい見て島井、「ふわっとした民意」というムードに酔って支持や応援をし、投票したりしてしまうのです。
こうして「スター誕生」となりますが、この広告宣伝活動が続くと、「スター」への大衆の姿勢は「好感」や「支持」から「崇拝」へと深化していきます。
つまり「スターシステム」は「個人崇拝(=カルト)」の対象である「スター」を誕生させ、「スター」を利用して、政治やビジネスなどの分野で大衆を望む方向に動かし、政治上の目的や商業上の目標・目的を達成しようとするシステムのことなのです。
一部保守層が「身内の広告宣伝」を聞いて「世界と互角に渡り合うわが国稀代の愛国政治家」と好感を抱き、心酔した安倍晋三首相に、自民党の「TPP(環太平洋連携協定)断固反対」の政権奪還時の「選挙公約」をあっさり捨てて同協定に邁進させ、時折ネトウヨにウケる発言をしがちな麻生太郎元首相について好感を抱かせた後、未成年者でも国益に反するとわかる水道民営化を麻生氏に強行させたりしたことと、大衆に好感を抱かせた芸能人やスポーツ選手を企業CMに起用して企業の印象を良くし、商品を購入したくなるように大衆を動かすことは、同じカラクリによるのです。
かつて知人のある政治学者が、私が大学時代は法学部政治学専攻だったと知って口にした次の言葉を印象深く覚えています:
「広告業界には法学部出身者が多いそうですね。つまり彼らは、何も政治家になるばかりが政治をやることとは限らない、ということを知っているんですよ」。
5.政治と商売に共通する広告宣伝
ここで「政治とは何か?」という根本的なことを確認しておく必要があります。
私なりに言えば、「政治とは、自分が望むように人や大衆を動かすこと」です。
「自分」とはしばしば、すでに権力を握っている者やこれから権力を奪おうとする者と言ってもよいですが、彼らのような存在は国や地方自治体だけでなく、各種の企業や団体、学校の部活動までも含む、あらゆる集団にいます。
「自分が望むように」とは、さまざまな形態、方向性、手段などのことです。
例えば、内実はどうであれ「議会制民主主義」と「法治主義」を採用する現代では、民主主義的手続きで選出された議員らが議会で法規を制定して、大衆をそれに従わせる形態を採り、権力側に不都合な法規も「議会制民主主義」と「法治主義」の建前に則って、あるいは装って改廃します。
ずっと遡って、法規が未整備の時代や占領統治化などでは大衆を実質的に武力で脅して従わせる政治形態もあります。
また権力者や権力奪取を狙う者が望む方向性には、「資本主義」や「社会主義」などの他にイスラム原理主義のような「宗教主義」もあります。
しかしこれらの形態やイデオロギーなどの方向性や手段は「政治」の枝葉末節でしかなく、「政治」の本質とは権力者や権力奪取を狙う者がこれらの形態や方向性や手段を使って「大衆を自分が望むように動かすこと」なのです。
「政治」の本質をこのように突き詰めると、商売も本質的には政治と似ていることが明らかになります。
「権力者」を「商売人」に、「大衆」を「消費者」に置き換えて、「商売」とは、「商売人が消費者を自分が望むように動かす(買わせる)こと」だと言えます。
ここでは、「商売人が望む」ことの動機が善意であれ悪意であれ、「自分が望むように」という共通点に注目する必要があります。
そして「政治」の「治」にも「商売」の「商」にも「口」が入っているように、「政治」も「商売」も「言葉」の役割が非常に重要である点で共通しています。
その「言葉」の本質は、「大衆や消費者を自分が望むように(しばしば言葉で)動かすこと」が目的である以上「広告宣伝」なのです。
こうしてみると、大衆の行動規範となる法規を学ぶ法学部にしばしば法律学専攻と政治学専攻が併設され、広告業界に法学部出身者が多い傾向にも納得がいくのではないでしょうか?
その上で、ある商品の販売を目的として好感を抱かせる場合には「広告宣伝」や「コマーシャル」または「CM」と表現する一方、ある国について「独裁者による独裁政権の独裁国家」など否定的な印象を与えようとする場合は「プロパガンダ」という否定的語感の外来語に置き換えられる傾向に注目すると、前述したように、外来語の安易な受容と使用が物事の本質について思考を停止させ、外来語で表現する物事がもたらしうる不利益や害悪を覆い隠す効果がある点にも気づくでしょう。
「まったく売れなかった物が、広告を変えただけで嘘のように売れるようになる」ので、「物が売れる・売れないのと、その物の品質はまったく関係ない」、とは私の知人のマーケティングコンサルタントがよく云うことですが、「物」自体に直接触れることが難しい場合、その「物」の売れ行きは「広告宣伝」に大きく、または決定的に左右されることになります。
それは「物」を「政治家」に置き換えても同じであり、村から町、市、都道府県そして国へと人口規模が拡大するほど、有権者が政治家と直に接する機会は減り、その分「広告宣伝」=「プロパガンダ」、すなわち広告代理店や広告を出す企業、実質的には「広告宣伝」=「プロパガンダ」機関である新聞・テレビ、ネット上の「インフルエンサー」らが、個々の政治家や政党への印象や支持率に大きなまたは決定的な役割を演じることになります。
6.広告宣伝=プロパガンダに左右されないために
一般に物事を判断するために収集、分析、評価すべき「情報」と聞くと、すぐに書籍や新聞・テレビ、ネットの情報をイメージしますが、それらはすべて、第三者が介在した二次情報でしかありません。
そして、二次情報には常にその発信者の心象や価値観、政治的意図、商売の目的などの影響が及んでいます。
前述の知人の政治学者はこうも言っていました。
「報道内容の真偽なんてどうでもいいんですよ。だって私たちは現実的にはそれを確かめようがないじゃないですか?それより、誰が何の目的でその報道を行なっているのかを考えることが大切なんです。」
これは当たり前のことだと思われるかもしれませんが、「言うは易し、行なうは難し」の典型だと思う私は、日英露の各言語で書かれた書籍やマスコミ、ネットの情報の長年にわたる収集と分析に加え、国内外のさまざまな専門家らと情報や意見を交換し、政治家らの言動を直接見聞きしてきた人物の言葉だけに、非常な重みを感じた次第です。
しかしこのようなレベルでの情報収集・分析・発信の作業は、それを生業や学業の専攻としていない限り非現実的です。
とはいえ、生業や学業の専攻としていなくとも、ある程度のことはできますし、そのヒントとなることを少し述べたいと思います。
モスクワ在住時代に始めた日本の信仰思想の探求は当初はいろんな書籍やネット上の記事を読むばかりでしたが、一つの神社についても筆者によって見解や主張はさまざまであり、誰が正しいか判断がつかないもどかしさが募っていきましたが、そのうち諸説の間を彷徨っている自分の姿にふと気づき、書物に頼るのは危険だと直観し、一時帰国の度に各地の社寺を直接参拝して研究する方法に改めました。
そうして神社やお寺に実際に足を運んでみると、本などから受ける印象とは全然違う世界が目の前に広がっていたのです。
それは、各種の文献の著者らの誰もが間違っているというのではなく、彼らとは違う自分なりの見え方があるという、少し冷静に考えてみればごくごく当然の真実に実感とともに気付かされたということです。
こうして自分自身の実感を伴う経験を重ねることで、他者の意見に左右されずに主体的に考えて研究を進めていくことができるようになりました。
言い方を換えると、これも当たり前のことですが、一次資料に直接触れることが第三者に左右されずに思考し、判断するために極めて重要なポイントです。
どの分野であれ専門家は一次資料を重視しますが、それはまた専門家以外の誰にとっても大切なことです。
しかし、例えば国政など規模の大きな事柄になると、その一次情報に直接触れることは庶民には不可能に等しいですが、私たち有権者が権利を行使することが可能な選挙には例外的な部分があります。
それは選挙に立候補した政治家たちの弁舌を、マスコミやインフルエンサーらの第三者が各々の主張に都合よく切り取って編集、加工したものだけでなく、ありのままに聴く機会が生まれることです。
さらには立候補者たちと同じ空間に居ることで、言語以外のもの=空気を通して得ることができるものも少なくありません。
毎回選挙の度には有権者に対して投票に行くことが呼びかけられたりしますが、それに劣らず、またそれ以上に重要なのは、立候補者たちの演説をできるだけ直接聴いて、自分自身で考え、判断することです。
最も重視すべきは、マスコミや専門家やインフルエンサーなどの「権威ある」「著名な」「人気のある」第三者の情報ではなく、自分自身が直接見て、聴いて、感じ、考えたことなのです。
他には、立候補者らと利害関係のない人々の本音に耳を傾けるのも有効です。
中国共産革命の指導者の一人である周恩来の伝記を20〜30年前に読んだことがあり、書名や出版社名などは忘れてしまいましたが、日本留学時代の周恩来はよく散歩に出かけたそうで、それは政府がいくら情報統制をしても市井の庶民の様子や会話から社会、経済の実情はもちろん、政治の動きまで推察できるからだ、というようなことが書いてあり、「敵ながらあっぱれ」とは周恩来のような人物のことを謂うのだと感心した覚えがあります。
情報統制や広告宣伝の技術がいくら発達しても、どんな手段を使っても、実態との乖離はいずれ庶民の肌感覚で察知され、その本音は意外な形で表に漏れ出てくるものであり、情報の統制や操作が無駄、場合によっては逆効果となるという、時代や場所を超えたこの真理を周恩来は承知していたのでしょう。
またコメディアンにして映画監督の北野武氏は、ある雑誌記事の中だったと思いますが、書籍やマスコミやネットにアクセスすることを一切やめ、そこまで情報を遮断しても尚、自分の耳目に飛び込んでくるような情報こそ本物の情報だ、という趣旨の発言をしていたように記憶しています。
そういう意味で最近おもしろい経験をしました。
9月中旬のこと、博多総鎮守櫛田神社の近くの喫茶店で川端商店街の商店の経営者かその奥さんたちと思しき60〜70歳代の女性客数人が自民党総裁選について、それぞれ言いたい放題の話を始めたのが耳に入ってきました。
ある女性候補については「あの人は化粧をもうちょっと変えた方がいい」とか、「あの人の眉毛は刺青」だとか、議員の間で「裏切り者」呼ばわりされる石破氏の「目は悪人の目じゃない」など、政治と本質的な部分が似ている商売で長年培ってきた経験と女性ならではの視点や直感に基づく政治談義は、マスコミ報道やネット情報とは異色で大変興味深かったですが、最終的に石破茂新総裁が誕生した瞬間、ふと博多の女商店主たちの会話が思い出された次第です。
また別件で久しぶりに電話してきた高校時代の女性の友人は、一昨年の夏に鳥取県で開催された彼女の所属する業界団体の全国大会に出席した折、来賓として臨席していた石破茂氏の挨拶を直接聴いて、「この人は本当の意味で頭の良い人」だと強く感心したと語り出し、今まで話を直接聴いたことのある自民党大物政治家たちより石破氏は別格に頭が良いと強調していました。
尤も、これら特定の政党や政治家と利害関係のない博多の女商店主たちや友人の話もまた、その受け手である私や本稿の読者にとっては二次情報です。
先月の自民党総裁選もそうですが、これから始まる衆議院総選挙も日本一国だけでなく世界にとっても非常に重要な意義を持っており、米国大統領選挙など世界の今後に大きな影響を与えうる選挙となるでしょう。
実際、石破氏本人も含む自民党関係者らと日本国民のほとんどにとって想定外となった石破新総裁・新首相の誕生後の今月上旬から、世界の流行病騒動やロシア・ウクライナ紛争で大きな役割を演じてきた米国民主党政権の副大統領で次期大統領選に出馬中のカマラ・ハリス氏の支持率が急落、民主党側は焦燥を募らせており、日本国民に立場が近い党員・党友の支持が厚い石破茂氏の自民党総裁・首相就任が米国や世界に与えた衝撃の大きさがはっきり見て取れます。
これは、コロナ禍や露ウ紛争などを利用して世界を動かそうとしてきた勢力が、石破氏以外の人物が自民党新総裁になるように望んでいたことを示唆する現象でもありますが、世界の今後を左右する力を、大手の報道機関や巨大企業や政治家らを利用しようとする勢力でもなく、私たち日本の有権者一人ひとりが発揮しうる可能性を今回の自民党総裁選が示したとも言えます。
この力をより確かなものとするためには積極的に「投票に行く」(しかも期日前ではなく投票日当日に)ことは当然ですが、それ以前に大切なことは、立候補者らの選挙演説を、マスコミや専門家やネットのインフルエンサーら第三者を介さず、先入観を捨てて直接聴く努力です。
そのような時間がない人たちは、演説内容が編集されていない「ノーカット」の動画を視聴するようにしましょう。
私はテレビニュースなどもYouTubeで視聴しており、それは視聴者のコメントを読んで世論の動向を窺うためでもありますが、「ノーカット」動画のコメントには編集済みの動画や記事、インフルエンサーらの解説動画に対するコメントとはかなり異なる傾向があり、マスコミや言論人らによる編集と解説がないと、こうも受け取り方が異なるのかと実に興味深いものを感じているからです。
「ノーカット」動画が見つからない場合は、編集済みの動画を視聴する他ないですが、その場合は動画から自分がどんな印象を受けるかをまず自己観察し、そういう印象を抱くことが動画の配信者にとってどんな利益があるか、なぜそのような内容の動画が、そのようなタイミングで配信されているのかを考えてみましょう。
その答えがすぐに思い浮かばなくとも、とにかく自分で考えること自体がとても重要です。
7.「カルト(崇拝)」と「オカルト(神秘)」の違いを実感・理解するために
そうしていると期せずして大きなヒントとなるような情報が飛び込んできたり、不思議で神秘的、換言すれば「オカルト」的とさえ思われる情報との巡り合わせも起こります。
そして「オカルト」なことは、「崇拝」=「カルト」の対象とされる「優生」の「選民」を通じなくとも、専門知識の多い少ないに関わらず、誰もが直接に体験しうることなのです。
それは、お釈迦様がまだ何も人生や社会についての経験や知識もない生誕直後に「天上天下唯我独尊」という意味の言葉を発せられたとする仏教伝説の「暗号文」の真意や、周恩来が心がけ、北野武氏が開陳した真実を受け取る秘訣に通じるものでもあると思います。
石破首相が衆議院を解散した10月9日の夕刻、最近は家に篭りがちなので多少は身体を動かさねばと思って外に出ると、神仏に関連して描かれたり彫られたりするような細長く延びて先端が少しカーブするいく筋かの雲が目に入り、蛇に化身する大物主神と出雲大社で有名な大国主命、そして同神と習合した大黒天の三神を祀る福岡市東区和白丘に御鎮座の下和白大神神社に参拝しようという気になりました。
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その後、福岡市東区高見台の上和白大神神社〜下和白大神神社〜宗像市沖ノ島を結ぶ直線上に位置する和白丘の竜化池に足を延ばし、そこでは蛇の鱗のような雲を仰ぎ見てから、次に近くのスーパーに立ち寄ると何となく腹の虫が鳴って、普段は行かないフードコートに入って焼きそばを注文し、席に向かおうとした時に週刊誌が目に止まり、待っている間に普段は読まない週刊誌でもめくってみる気になり、たまたま最前列にあった『週刊文春』を手に取ると悠仁親王殿下のトンボのご研究についての記事があったので読むことにしたのですが、表紙にはへびつかい座が描かれていました(8月29日号)。
![](https://assets.st-note.com/img/1729163676-IfmigEjTKCrLVow7ZSDHapRd.jpg?width=1200)
後日へびつかい座を調べてみると、ギリシャ神話のアポロンの息子で医師であるアスクレピオスがヘビを持つ姿とされ、アスクレピオスもヘビも死者を蘇らせる術を知っている特長が共通していることを知りました。
へびつかい座についてこの概要を知った時、2006年に悠仁親王殿下がご誕生になったことで、断絶しかけていた男系皇統の存続に繋がり、先月は成人をお迎えになった慶事に思い及びました。
また、「失われた」歳月が30年近くなった令和2年(2020)に安倍晋三政権下で始まったコロナ禍とその渦中で確保したワクチンの全国的接種から戦後最大級の超過死亡が発生し続けている今、日本のまさに「起死回生」がかかった衆議院選挙の号砲が鳴った当日、大神神社や竜化池から蛇身を連想させる雲を目にし、それを機に普段とは違う行動を取った結果手にした雑誌にへびつかい座の表紙イラストと悠仁親王殿下に関する記事があったという一連の「オカルト」な出来事に、今回の選挙に一日本人として幸先の良いものを感じた次第でした。
そこで今度の選挙では私もできるだけ立候補者の演説を直接聴く努力をし、友人が話したとおり石破首相や地元の立候補者は頭の良い人物か?見識と能力のある人物なのか?ある女性政治家の眉毛は刺青とする博多の女商店主たちの話は本当か?(笑)などなど自分の目と耳で確かめたいと思います。
尤も、眉毛が刺青である点を論うのは、石破内閣の閣僚たちの記念撮影で、赤い絨毯の色がシャツに反映したのををまるで肌が露出しているかのように見誤って、「だらし内閣」などと短絡的に揶揄するのと同じ低レベルなことに過ぎません。
眉毛や外見がどうであれ、国家と国民のための政治に努め、独善に陥らずに行政を機能させる能力がある政治家たちを、私たちが自分の目で見極めて投票することが大切です。
それは、外見も重視する「スターシステム」によって好感を抱かされた人物への「個人崇拝(=カルト)」支配から、私たちが自力で脱却するためにも重要な方途だからです。