すきなものの話
すきなものの話をする。わたしは服がすきで、すきといっても、たくさん服を持っているわけではない。
人間生活を送る上で、1歩家の外にでれば人は必ず服を着る。毎日服を着ている、と思う。
自分にとっての服は、思考に影響を及ぼしてくれる大切なツールだ。
からだと布の間に空気を含むような、ゆとりのある服がすきで、そういう服を着ているときは、「これはこうじゃなきゃいけない」みたいな固定概念から開放される感覚を身に纏うことができる。
からだと布のあいだのゆとりが、そのままこころやあたまのゆとりにもなってくれる。
服は、社会とつながるメディアにもなる。最近買う服は、ドメスティックブランドが多くて、誰がデザインしていて、どこの布を使って、どこの工場で作られて、といったどこからきたのか、手元に届くまでの過程ができるかぎりわかるものを買うようにしている。
それはファストファッションによく言われる搾取・差別に加担したくない、というのが主な理由ではあるんだけど、過程がみえる・想像できることで、服から人や文化とつながることができるような気がしている。
社会とつながることで自分と異なる価値観に出会う機会にもなるし、それを許容するゆとりまで生み出してくれる服は、一石二鳥のツール、みたいところがあるワケだ。
服をたくさん買うこと自体がすきな人もいれば、新しい服を着ることがすきな人もいる。
お金を払わないと「すき」ということにならない、みたいな考え方もあるかもしれない。
お金を介さなくてもすきなものとつながれる。すきなものはすきといっていい。
すき、を細分化していくと、別にお金がなくても、生きていけるような気もしてくる。(最低限はもちろん必要だけども)