関係に名前がつくとひきだしにしまいたくなる
人が2人以上集まると、人々はその関係に名前をつけて安心したくなる。
家族、友人、親友、恋人、などなど名前はいろいろあるが、同じことば(友人、恋人とか)でも人それぞれに『どういう意味を持たせて』そのことばを扱っているのかは異なる。
よくドラマとかでも「ぼくたちの関係ってなんなんだろうね」とか「関係をはっきりさせたい」みたいなセリフが登場するけど、あいまいな状態の関係に名前をつけるのは、人間がそのあいまいとともにある不安に耐えられないから、だと思っていて。
もちろん自分もこれまで多くの関係に名前をつけてきた。
ただ、名前をつけた関係は、名前をつけた途端に安心を得るとともにそれへの想像力が失われてしまう感覚がある。つくえのひきだしにしまわれた回答用紙、自分からはまず取り出すことがない、に近い感じ。関係に名前をつけたら、それはそれではい終わりひきだしの中にしまっちゃえ、みたいに自分の中でなってしまうんよな。
名前をつけて得られる安心は、信仰なんじゃないだろうか。
自分には、『信じ続ける体力』が足りないんだと思う。
一方で不安だからこそ、あいまいだからこそ、相手のことを想像できるときがあるような気がしているから、あえて関係に名前をつけないことを最近は選択しているところもある。
すきなひとか、にがてなひとか、の区分が自分の中にあって、そこにあえてそれ以上の名前を与えたくない。
(すきなひとたちのことを、友人、と口に出したりはするけど、どうもしっくりこない)
そんなことをすきなひとたちに話したら、ドMだと言われたけども、まあまあそれは否めないかもしれない。