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以前、「目指している将来像はありますか?」みたいなことを聞かれたことがある。
なにかを目指す、っていう行動によって「余計なもの」として排除されていくあれやこれや。
自分の小さな価値基準で、取捨選択して、なにかに「余計なもの」というラベルを張ることにとても違和感がある。(やってしまいそうになるときもある。)
だいたい自分を変えてくれたり、導いてくれたり?するのは、予期していなかったような出来事だったりする。
本当に「余計なもの」なんてあるんだろうか。
こどものころ、森の中に秘密基地だったり自宅の父親の部屋で勝手に消しピン(机の上で消しゴムを弾いて戦う遊び)のバトルフィールドを友達とあーだこーだいいながら作ったりしていた。
誰かにとっては「余計なもの」だったかもしれないし、今思い返すとどうしてあんなものを作っていたのかよくわからない。
それでも、できあがったものは「余計なもの」でも、そこまでの過程になにか大切なものがあった気がしている。
からだがそれを覚えてくれている。
だから今でも「余計なもの」だって頭が選びそうになったときほど、からだがそれを拒んでくれる。
「目指している将来像はありますか?」に対しては、「考えないようにしているけど、強いて言えば余計なものを愛し続ける自分でいたい」。
あたまよりもからだが覚えてくれていることを聴くほうが、たくさん「余計なもの」と出会える気がする。