マイストーリー#1引っ込み思案から、はじける系音楽家になったわけ
あらためまして、ウェルネスミュージシャンのみょうれゆきえです。
音楽はもちろん、人を『元気にすること』人の『不安を取ること』に命を使うことが好きと気づいて、ココロの自立を第一に、依存させないカウンセラーとして、ステージ以外でも、人との関わり方のスタイルを確立中。そんな私がどんなふうにできてきたのかという、そんなお話を3部作で書いていきます。
空想少女の始まり
ボーイッシュで活発な吉祥寺生まれの私は、お人形よりも自転車、ミニカーなどで遊ぶのが大好きな少女でした。
父の転勤で何回かの引っ越し、転校、環境が変わっていくごとに、何かが違うな、と思い始めます。
『人が変わると、自分もそのままじゃいられなくなる』
なんでだろう?
周りの他人の言葉で不思議がられてるように感じて、そのたびにグラっときて、自分迷子になっていきました。
捉え方が基本的にネガティブ
褒めてるのか、バカにしているのか、とにかく何か言われることがイヤになったので、なるべく自分を出さないように静かにしていくのでありました。
そして、父の出身地である秋田市へ引っ越しをすることになりました。
今なら「秋田大好きだ〜!!」と胸張って言えますが、小学2年生だった私は、秋田なまりの学校の先生、語尾が違う同級生の言葉がさっぱりわからず、何もしゃべらなくなるぐらいになっていきました。
しゃべらなくても人が集まってくる・・・でもなんか・・・
本当の自分はそう、大勢の人たちと遊びたいんだな・・・
エレクトーンとの出会い
そんな中、エレクトーンの教室へ通い始めると、これが、ハマりました。
演奏しているときは、自分らしくいられる、自己実現の時間なんです。
1年後には、ピアノの教室にも行かせてくれて、両方習いました。
演奏しているうちに空想でいろんな世界へ行けちゃう、そこから、大好きなもふもふ系ぬいぐるみを擬人化し、お話まで作り、劇中歌も作曲、録音し、
ぬいぐるみ出演、わたし一人操作という、ひとりリサイタルが始まっていきました。
何よりも、親はそれを否定することなく、おもしろがってくれ、時には、「これも楽器にしてみたら?」と、お菓子の缶や、箱などのアイデアをくれたりしたことがありがたく、そのまま空想少女となり、私の基盤となったのでありました。
なんてったって、たくさんのぬいぐるみたちは、人と違って、しゃべったとしても、私自身から出た言葉。
傷つくこともないし、自分の好きな世界のままでいられる。
ぬいぐるみひとりひとりの名前もちゃんと付け、ノートには色鉛筆で顔写真ならぬ顔イラストを書いて名簿も作り、声まで全部違うという、
どこがめんどくさがりやなんだろう?というぐらい、好きなものはとことん、という性格。
そんなひとりリサイタルは、防音室ではない自分の部屋で繰り広げられ、それは近所に音漏れしていくのでした。
ある日、母は、近所の人に、「いつもたくさんの子たちが遊びにいらしてて楽しい声と音楽が聞こえてきていいわね〜」と言われたらしく、
「騒がしくてすみません。長女がひとりでやってるんですよ〜」と答えると、本気でびっくりされたそう。
そのうち、リアルな子たちも遊びにくるようになります。
「エレクトーンでこの曲弾いて〜」とかのリクエストもくるようになって、家での季節のイベントや、誕生会などを開いたりもして、本物のちびっこ演奏家に。
その頃から、「みんなが喜んでくれるのってなんだか嬉しいな」
そう思い始めて、そのために演奏したいなと、芽生えたのでありました。
#2へつづく・・・
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