その日暮らしは止めて
労働に疲れた都市生活者の饒舌は半ば必然的に本質論めくことになる。岡村星の『ラブラブエイリアン』や岡崎京子の『くちびるから散弾銃』など、女子だけの宅飲みは即興的に生成される哲学の宝庫であるかのようだ。たとえそれらがダイアローグからコマ単位で切り離されたとしても、アフォリズムとしての訴求力が削ぎ落とされることはなく、今では坂元裕二のファンにも強くアピールするだろう。
『大豆田とわ子と三人の元夫』の主人公である松たか子と同じく、『エドワード・ヤンの恋愛時代』における若い男女もまた〈必死でリアルに立ち向かって〉いるのだが、エドワード・ヤンがとったアプローチは、先述の作家たちとはむしろ対照的である。監督のペンによる脚本はとにかく膨大なセリフによって構成されていながらも、要所ごとにフックを配置するでもなく、そのうえ劇が進行するに従い、物語の焦点はどんどんと拡散しているかにみえる。デリカシーに欠けて、功名心だけは人一倍な劇作家とはちがい、少なくとも、台北の中心地にオフィスを構えるモーリーには、令和の今でこそタイムリーな知見を披露する権利があるはずだが、彼女をはじめとするどのキャラクターも徹底して本質論からは距離を置いている。加えて、映画の序盤のセリフからすると、彼ら彼女らが〈見せかけ〉の世界で生きていることを示唆してもいるので、この群像劇はエドワード・ヤンなりの「プラスチック・ソウル」を奏でているのかと思いきや、果てしのないおしゃべりに寄り添うカメラはひたすらに優しげである。良し悪しではなく、こうしたヴァルネラビリティはウディ・アレンのそれとは別物で、必ずしも逆ギレの展開を約束してくれるのでもない。何もかもを放り出せたらどんなにか楽だろう?近年の坂元作品ではセリフとドラマとの主従関係が逆転するまでに至っており、さながら松岡修造の日めくりカレンダーのようであるのだが、それは文脈を二の次にせざるを得ないSNS時代ならではのニーズが具現化したもので、疲れた都会人のための特効薬として正しく機能している。そうしたインスタントな救いを用意していない分、もしかするとヤンは非情なのかもしれず、各シーンの冒頭に添えられるエピグラフは、都市にうごめく若い男女をスケッチした絵画のタイトルであるかのようにも思えてくる。気の利いたアフォリズムに頼らず、物語の芯を貫く一本の線が見えづらくもある本作を統べるのは、ジャン=リュック・ゴダールよりも遥かに遡るサイレント映画期のマナーであった。岡崎京子の「ゴダールまんが」はそのパスティーシュとしてすぐれ、『恋愛時代』と同じ1994年に発表されている。〈愛を語ることばなど存在しない〉という岡崎の態度をヤンも共有するかにみえて、多くの観客を戸惑わせるに十分な饒舌はその裏返しであるだろう。
しかしながら、物語には思いもかけない着地点が用意されている。明石家さんまか増子直純かといえば、わかる人にはわかるはずだ。いがわうみこの『11』など、周知のとおり、群像劇の幕引きに生命讃歌を謳い上げることの効果は、ままならない人生をもろとも浄化するものであって、朝もやの逆光によって完全なる黒い影と化したモーリーとは鮮やかなコントラストをなしている。その頭と手首には金色のネックレスと腕時計がかろうじて光り、本意ではない会社経営の虚しさをあらわすと同時に、自然と彼女の口からは弱音がこぼれる。絵と音とがシンクロする美しい瞬間。〈天使はおじさんだった どうでもいいおじさんだった〉だなんて、曽我部恵一じゃなかったら想像できるはずもない。そんなささいな奇跡があちこちに転がっていることをエドワード・ヤンは私たちに教えてくれるのだった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?