ボクの流儀
昨年春にネットプリントでリリースされた「溺死ジャーナル711-023」で、松本亀吉は雨宮まみとの思い出について書いている。その文中には吉田豪の名前も登場し、『帰ってきた 聞き出す力』のラストに収められた彼女への追悼文はこう評されている。
〈雨宮さんのスタンスを鋭く分析しつつ、温かく優しく正直で、追悼文のアンソロジーがあれば巻頭に収録されるべき名文だった〉
先述の亀吉さんのエッセイがまさにそうしたものでもあって、二人の目を通した雨宮さんの像はより陰影を濃くしている。
たとえば、〈彼女は自分の身体を切り刻んで原稿を書いているようにボクには見えた〉という豪さんの見立ては多くのファンが共感するところだろう。〈雨宮さんの死に傷つき、後悔している人たちを私は知っている〉と亀吉さんが書き留めたのは、だからこそだ。そして、ここでいう〈後悔〉とは、みるくの堀口綾子が自死した際の豪さんのそれと同質のものではないか。彼が現役のアイドルたちのメンタルケアにすすんで気を配っていることは、ツイッターや配信番組等で知ってはいたが、本作を読んで、その切実な動機付けに改めて心を打たれた。
〈岡田有希子のときはさすがに子供だったので何もできなかったけれど、堀口綾子に対しては、何かできることがあったんじゃないか〉
姫乃たまによる吉田豪逆インタビュー(『帰ってきた人間コク宝』収録)でも触れられていたそのエピソードは、後藤真希と加護亜依の章と対になっており、〈いろいろあってもやっぱり人生って素晴らしいのである〉という一文と呼応し合っている。「聞き出す力」シリーズはすぐれたアイドル論でもあって、「アイドルほど病みやすい商売もない」という著者の基本認識を読者は共有しているだけに、不意を突かれもした。そして、雨宮さんがかつて「溺死ジャーナル2010」に寄稿した「almost paradise」というマレーシア旅行記もまた彼女なりの人生賛歌であったのだ。
〈去ってゆく人がいても、あたらしく理解してくれる人のために、ものを書くこと。あたらしい希望を見ること。あたらしい希望のために、逃げないこと。(中略)世界中にオールモスト・パラダイスな場所はきっとあって、そこに行くことを考えると、人生はとても楽しいもののように思えてくる。仕事だけでも、旅だけでも、恋愛だけでもなくて、生きているのは、そういういろいろがごちゃごちゃになっていることなのだ、きっと〉
その結晶が『東京を生きる』であり、一冊それ自体が一篇の詩のようで、文章からは全く迷いが感じられず、キラキラと輝く街は私たちの足元にある楽園だと、そう信じさせてくれた。「40歳がくる!」を読んだ豪さんが感じた危うさは、古い傷痕のようにいずれ薄まってゆくものだと深く受け止めていなかった。だから、豪さんの口惜しさは想像するしかできない。
〈ボクよりも広く人を救う力のある文章を書いていた雨宮さんがここでいなくなっちゃうのはちょっとないよなーとも思う〉
たしかにそれぞれのライターとしてのタイプは全くちがう。ただ、少なくとも私は『帰ってきた 聞き出す力』を読むことで救われる思いがした。
本作においては『北陸代理戦争』の製作を火種とした抗争事件を紹介するなど、連載誌である「漫画ゴラク」のカラーに則ってもいるけれど、返す刀で自身のスタンスを表明するくだりには、豪さんの長年の〈後悔〉に対する誠実さがうかがえる。そして、当事者にコミットしすぎることで取り返しのつかない事態を巻き起こした高田宏治ならびに東映にリスペクトを送りつつも、こう続けている。
〈どうせ同じ手法でインタビューをするのなら、それがきっかけで人が死ぬよりも、誰かが救われるようなものを作りたいとボクは思う〉
カウンセラーとしての豪さんは羽海野チカが認めてもいるけれど、メンタルに関する事柄はきわめてデリケートかつプライベートな問題でもあるため、彼のはたらきのすべてが必ずしも表立って評価されるわけではない。それでも自らに課した役割を粛々と全うしようとする姿には、やっぱりグッときてしまうのだ。