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Cloud

 映画とマンガの違いについて考えるとき、私はいつも松本大洋の『ピンポン』を参照にする。曽利文彦が監督した映画版のキャスティングは井浦新や中村獅童、大倉孝二など、まるで原作の生き写しであるかのようで、主役の窪塚洋介を完全に喰っていたし、音楽は石野卓球、BOOM BOOM SATELLITES、SUPERCARと、今もって輝きの失せることのない鉄壁の布陣である。何より、『ピンポン』というマンガ自体が作者のマスターピースのうちのひとつで、たとえば『ブルーピリオド』や『ブルーロック』、『BLUE GIANT』などといった、マンガというフィクションによる才能論の現代的な隆盛前夜を賑やかしたのは羽海野チカと、そして松本大洋その人であった。
 にもかかわらず、実写版の評価が振るわなかったのはなぜか。宮藤官九郎が原作ものを手がける際の悪癖である「エピソードを団子つなぎにした脚色」だろうか(ただし、『いだてん』を観る限りでは、オリジナル作品においてもその傾向はある)?曽利の本業であるポップなCGワークと松本大洋のハードボイルドな世界観との齟齬だろうか?いずれも致命傷になりうるポイントで、公開時には多くの観客を大いに落胆させたはずだ。そんな彼ら彼女らと同じく、映画の完成を心待ちにしていた私からもうひとつだけ失敗の要因を挙げるとするなら、単純に「動かす必要のない絵を全て動かしているから」であると思う。このひと言だけをとってみれば余りにも原理的にすぎて、この前提に立つ以上はマンガの映画化そのものが出来なくなってしまう。私は原作厨ではないし、誤解を避けるためにも少し説明しておくと、実写版『ピンポン』は止め絵と止め絵、つまりコマとコマのあいだの時間処理と空間設計に欠陥がある。『マトリックス』によってその効果が爆発的に普及したワイヤーアクションとハイスピード撮影はこの場合ネックでしかない。そもそも、卓球は野球のように攻守の間合いをじっくりと見せられるようなスポーツではなく、基本的には息をもつかせぬタイマンの打ち合いである。加えて、卓球台の面積はきわめて狭いため、猛スピードで両陣地を行き交うピンポン玉をカメラに収めるには切り返しなどとても不可能かつ不適切で、選手の個性にかかわらず、あらゆる試合は縦の構図を主とした、俯瞰気味の長回しによってテレビ中継される。松本大洋の『ピンポン』は、静止画によってドラマを構成せざるをえないマンガというジャンルの特性を逆手に取り、コマとコマのあいだに必然として生じる空間的かつ時間的な省略を最大限に活かして、止め絵の美しさとスポーツの躍動感を両立させた。それは命のやりとりこそないものの、一瞬の動作と判断が勝負を分けるさまは凄腕のガンマンの決闘にも似ている。第二次世界大戦後に手塚治虫が『新宝島』で確立したとされる「映画的」手法は、彼の記憶のなかに息づく黄金期のハリウッドの編集芸術をカメラアングルの単位に分割し、それぞれのショットのハイライトを紙にインクで定着させたもので、いわゆる「運動」とはむしろ対照的であり、西部劇でたとえるなら、手塚的映画(=漫画)と映画的映画の違いは、セルジオ・コルブッチの『殺しが静かにやって来る』とドン・シーゲルの『抜き射ち二挺拳銃』を見比べてみるとわかりやすいだろう。コルブッチが日本の漫画を読んでいたとはとても思えないが、各ショットの決めどころをわかりやすくピックアップし、そうした点と点とを沸々と静かにたぎるテンションでもってつないでみせる彼の演出は手塚治虫が翻訳したハリウッドそのもので、だからこそ非アメリカ的である。ヨーロッパの西部劇がマカロニウエスタンとして色物視された背景には、演出の文法の根本的な違いを無意識のうちに見てとったアメリカの観客の集合的なモヤつきが根差していたのではないか。もちろんそれは善し悪しではなく、映画の可能性の振れ幅がほんの一時のアレルギー反応を引き起こしたというだけの話であって、先述したとおりの卓球というスポーツの個性をカメラに収めるのであれば、曽利文彦は松本大洋の原作ではなくコルブッチこそを参照にすべきだった。
 その意味で黒沢清の『Cloud』は非手塚的映画の最たるもので、明らかにドン・シーゲルの系譜にある。ショットの起点と終点とを結ぶなめらかなカメラワークと、それによって全身を等間隔で丸ごとに捕えられた俳優の演技はまさしく「運動」で、なかでも、転売ヤーの吉井を演じる菅田将暉が萌えフィギュアの限定商品の買い占め、店の前に列を作るオタク連中を尻目に、まんまと勝手口から車で走り去るシーンは映画史上最もすぐれたドローン撮影にちがいなく、必ずや青山真治をうならせたはずだ(そして、このような「運動」は、実質的には脚本の人であるクリント・イーストウッドが頓着しない類いのもので、ヒットメイカーとしてはさして問題にならない)。ここでは吉井のしてやったり感とセコさとが等しく描かれており、しかしながら、それこそが彼の仕事の本質なのである。もっとも、開き直って恥じない彼は羽振りのよさを隠そうともせず、副業である職場の上司や同業の悪い先輩のほか、初対面の赤の他人にまでわかりやすくぞんざいな態度をとる。個人事業主が金銭的な保証を伴うアイデンティティを確立したときに芽生える傲慢さはSNSによってはっきりと可視化されて久しく、吉井はそうしたサーヴィスを利用してこそいないものの、観客の側では自分をも含めた身近な類例を自然と思い起こすという仕組みになっている。「フォロワー数は己れに向けられた銃口の数である」という、わかるようなわからないようなツイッターの常識は、『Cloud』においてほとんど冗談のごときレヴェルで具現化し、哀川翔が90年代後半に主演した作品群に取り憑いて離れないシネフィルたちをもれなく撃ち捨てるほどの痛快さがある。だからこそ、『気狂いピエロ』の変奏であるかのようなどん詰まりなラストも決して私たちの心を暗くすることがないのであった。

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