幸福を定義しても守破離はまた循環する
「守破離」
私の座右の銘にしている言葉です。
最近、鳥井弘文さんのvoicyにどっぷり浸かっております。
目指したい社会にはいつも共感し、そしてNFTの可能性について勉強になっております。
今回は、鳥井さんのvoicyで中で、特に私が印象に残っている「人生をハックするのをやめた日」について、思うところを書いてみようと思います。
このvoicyのディズニーランドの例えが「守破離」の大きな捉え方だなと感じたのと、この例えがとてもわかり易く、なぜかずっと頭に残っております。
ディズニーランドをハックしたその後の「離」
「守破離」とディズニーランドの対比はこんな感じです。
「守」:最初はディズニーランドをガイドブックに沿って遊んで見る。これで十分楽しめる。
「破」:慣れてくると、ファストパスの使い方やパレードを狙って乗り物を乗るとか、自分なりの効率の良い楽しみ方を見つけて、最小コストで最大パフォーマンスを得るようになる。
ここまでは、みんなやることかなと思うけど、この先の「離」の段階に人は至ってしまう、というのがとても興味深かったです。
ある種ゲームをクリアした感覚になると、つまらなくなってしまうのかなと思います。
「手段と目的が完全に逆転していた自分に気付かされる」という風に鳥井さんは表現されていました。
そして、
「離」:「どうやら舞浜の外にも世界があるらしい」ということを風の噂で聞いて、外に行ってしまう。
せっかく、最高に面白い楽園を作っても、その最高の楽しみ方を知っても、人はいつかは外の世界に出ていこうとしてしまう。
なんだか私にとってすごく新鮮な感覚でした。
外に出たくなる衝動
この話を聞いて、ふと「進撃の巨人」を思い出しました。
記憶が残っており、すべてを知っている人からすると、一人でも外の世界に出て、外の世界の情報が壁の中に入ってくると、せっかく人々の記憶を消してまで守ろうとした秩序が壊れ、また外との悲惨な戦争になることを知っているので、全力で止めたくなるだろうと思う。
でも、どんなに隠して、どんなに楽しい楽園を作っても、いつか人の好奇心が勝り、外の世界に出ていこうとする作用は変えられない。
鳥井さんのディスニーランドの話と進撃の巨人の話を思い出して、そんなことを感じました。
行き着く2つの先を知って私の場所を知る
もう1つ、私の中で面白い生き方だななと思わせる人に、インド独立の父でもあるガンディーがいます。
ガンディーはコテンラジオでも紹介されていました。
ガンディーは弁護士として成功を収めたあとに、社会活動をおこない、かなり質素な生活をします。
ガンディーが質素な生活をしようと思えたのは、やはり一度キャリアとして成功を収めたことが大きく関係しているのではと私は思っています。
つまり、ガンディーは、早くに「破」の状態に行き、その先のつまらなさと未来の希望がないことを感じて、「離」として質素な生活を送ったのでは、と捉えることができると思います。
両極端を知る「離」
私にとって「守破離」は、ある1つを極めるための成長の道筋、みたいな感じだったのですが、鳥井さんのディズニーランドの話、進撃の巨人の話、ガンディーの生き方を見て、「守破離」のサイクルは、両極端を知り、中庸に行き着くためのサイクルなのかなと思うようになりました。
人には、これだけやっておけば幸せになれる、というものはない。
先人たちが、幸せの極意を残してくれたとしても、それだけやっていても、いつかはそこに疑問を感じて、それと違うことをやってしまう。
その両方を経験して、初めて、自分なりの幸せの場所というものが理解できる。
結局は経験して理解するしかない。
でも、そのサイクルを早く経験できる方が、幸せになれる期間が長い。
なので、先人たちの知恵はとてもありがたいのです。
先人たちの教えはあるけれど、内なる声に従い、行動して、自分なりの幸せを探しに行こう。
決して、自分の経験だけで他人の幸せを規定してはいけない。
マイナスも経験して、先人の知恵が自分の糧になるのです。
2023年一回目の記事は、かなり取り留めのない記事になってしまいました。