みちくさ⑬‥海へ山へ―夏季生活と学園寮1
明星の自然体験・自然学習
明星学園をつくった先生方は、創立時から子どもたちを自然のなかで学ばせたい、生活させたいと考えていました。創立当時の学園の周りは井の頭の池と森、どんどん山、沼地、麦畑というふうに自然がいっぱいでした。教室のなかでも勉強するけれど、教室から出て実地に観察する、調査する、記録する、生き物を栽培する、飼育する‥‥そういう学習を通じて生きた知識を獲得していくことを重要視しました。理科(自然科学)と社会科(地理)を合わせたような「自然科」という教科もありました。そして「遠足学校」とあだ名されるほど、子どもたちを教室の外に連れ出しました。「夏季生活」も世の学校にさきがけて実施しました。
1924 (大正13)年に学園が開校し、その翌年には早くも神奈川県三浦半島の三戸浜で「夏季生活」が実施されています。小学校だけだった時代、まだ寮がありませんから、海での合宿生活は今日でいう民宿などで行われました。
1928(昭和3)年に中学部と女学部が開設され、それから2年後の1930(昭和5)年に、軽井沢の上野原寮で小学部・中学部・女学部の3部合同で最初の「夏季生活」が実施されました。
「夏季生活」のいくつかの目的、そのひとつは共同生活です。子どもたち同士、あるいは子どもたちと教師たちが寝食を共にする。もうひとつは、生活のなかでの鍛練。体と心を鍛えていく。もうひとつは、共同生活や鍛練を大自然のなかで行う。自然体験、自然学習です。
明星学園ではかつて、長野県の軽井沢町、千葉県南房総市千倉町、山梨県の清里の3ヶ所に学校寮を所有していました。それぞれの寮は創立間もない時期から平成に至るまでの長きにわたり、子どもたちの夏季生活に利用されてきました。
軽井沢〝上野原寮〟
軽井沢の寮は創立間もない1930年から1967年まで、夏の合宿所として使われました。所在地の沓掛字上野原台地の地名から「上野原寮」または「沓掛寮」と呼ばれたこの寮は、自然体験教育の拠点となり、子どもたちはこの寮から浅間山・八ヶ岳・妙義山などへの登山や、長野県各地の史跡などへ出かけていきました。幅広い年代の子どもたちが訪れ、忘れ得ぬ思い出をつくった〝山の寮〟です。北に浅間山を望み、落葉松林に囲まれ、静かで落ち着いたこの寮の敷地は、明星の教育に賛同し協力を惜しまなかった、軽井沢の大地主で早稲田大学教授の政治学者、市村今朝蔵・きよじ夫妻から寄付された土地です。
千倉の〝海の寮〟
いっぽう千倉寮は、外房の瀬戸浜海水浴場にほど近い農村に位置する〝海の寮〟です。瀬戸浜の海は遠浅で穏やかな海水浴場、堤防を隔てて豊かな磯、外海に面したやや波の荒い浜が並び、海辺の自然観察にもってこいの環境です。
創立者の照井猪一郎先生は海の寮を持つことを切望し、1936(昭和11)年秋に、卒業生らと共に房総半島を実地に歩き回って、半農半漁の町・千倉に白羽の矢を立てました。そして翌1937(昭和12)年の夏から、小学校4・5年生の子どもたちが農家や旅館などに分宿して、千倉での臨海生活を開始しました。太平洋戦争の影響で実施できなかった年もありましたが、戦後1948年からは、地元漁業組合敷地に移築した2階建ての古家を宿舎として、この場所を拠点とした5・6年生の臨海生活が1955年まで続きます。翌1956年には農家の青木さんの敷地に建物を移築し〝千倉寮〟と命名。1969年からは3・4年生の寮生活もはじまり、中学生や高校生の合宿行事にも利用されました。教師たちが泊りがけの研究会を行い、行事に利用していない時期はグループ旅行や家族旅行にも開放していました。
千倉寮を利用した小学校の夏季生活は2001年まで続きましたが、2002年からは旅館を利用するようになり、時代の変遷を経て宿泊日数もだんだんと短くなっていきました。
清里の八ヶ岳寮
1966年7月、明星の3番目の寮として清里寮が完成しました。小海線の清里駅から徒歩30分、車で5分ほどの高原に山梨県が拓いた学校村の真ん中あたり。近くに池や小川が流れ、良い景色に囲まれた寮でした。
ここでは昭和40年代後半から小学生の林間学校が行われ、多くの1・2年生は初めて家を離れて学校の仲間と過ごしました。冬には小・中学生のスケート教室、夏には中学生の八ヶ岳登山の拠点として、また中・高校生のクラブ合宿などにも利用されました。老朽化した軽井沢の寮に代わって全校的に親しまれた寮でしたが、残念なことに1984年1月、漏電による火事で焼失しました。
* * * * *
寮での生活は、子どもたちが家から遠く離れて1週間も集団生活をする非日常の体験です。幼い子どもたちを引率するために、明星では教員たちの間で脈々と受け継いできた経験をもとに、毎年準備をしてのぞみました。
(次回へ続く)
文責:資料整備委員会 大草 美紀