九天九地3:宝船、げに恐ろしき勘定書
命がけの航海
この時に嘉兵衛のした事は、一つ間違えば…いや間違わなくても完全に、大犯罪である。
しかしそれは後の話に回すとして、嘉兵衛一行が江戸に到着した頃には、南部藩からも「宝船」到着の報告が続々と届いていた。
特筆すべきは、最後の一艘である竜神丸の、航海の模様であろう。
竜神丸が下関から瀬戸内海に入り、紀州灘を抜けて伊豆大島へ近づいた頃、突然の大嵐が竜神丸を襲った。
竜神丸じたいは、かろうじて波浮の港で難を避けることが出来た。しかし、竜神丸の後続で航行していた二十数艘余りの船は、一艘残らず難破し、あえなく海の藻屑と消えてしまったのである。
その知らせを聞いた嘉兵衛は慄然となりながらも、あの夢はまさしく霊夢、やはり天佑神助があったのだ、との思いを新たにした。
三万石の米は、すべて間違いなく、石巻港に到着した。後は北上川の河船に積み替え、盛岡まで運搬するだけで、これにはさしたる問題はない。
後日談だが、この年の飢饉で、秋田藩には20万人近くの餓死者が出たが、南部藩ではほとんど犠牲者を出さなかった。それはすべて、この嘉兵衛一人の働きによるものと言っても、過言ではないだろう。
一番恐ろしいものは…
しかし…である。
この章のタイトルどおり、まだ、恐ろしい勘定書きが待ち構えている。
鍋島藩江戸屋敷を訪れた嘉兵衛は、用人成富助左衛門に会い、丁重に礼を述べた。
「お陰様で、この大役も、首尾よく勤めおおせました。厚く厚く、御礼申し上げます」
「それはまことに結構である。しかし、国元よりの書状によれば、その米の代金は江戸表にて決済のこと。そちほどの人物がわしの面前であそこまで言い切り、正式な約束も取り交わしてのこと、話が全く違うではないか。これには何か、深い仔細があってのことかと、その方の帰りを待ちあぐねていたのだが」
「はい、そのことにつきましては、手前の口より直接申し上げようと存じまして、書面にもしたためませんでした。しばらく、お耳をお貸しいただきとうございます」
「うむ、聞こうではないか」
「三万石の米代金、十一万両と申されましても、これほどの大金でございます。今、南部家のご金蔵には、そのようなお金はございません。つきましては、しかるべき利息を付し、長期の年賦払いに切り替えてはいただけますまいか」
これを聞いた助左衛門の、驚くまいことか…
「な、なんという話だ!そのほうは、あの時、あれほど強く言い切ったではないか!」
「はい、そのように申し上げなければ、このお話はまとまらなかったでありましょう。手前としても、一世一代の大芝居、しかしそれも、数十万人の命を救うためでございます」
「う…う…」
「南部藩のご家中のどなたにも、何の責任もございません。このお詫びに、商人ながら遠州屋嘉兵衛、わが腹かっさばいてお目にかけますから、何とぞ私一人の命と引き換えに、今申し上げた条件をお飲みいただけますよう、謹んでお願い申し上げます」
「うむ…うむ…」
言葉に詰まった助左衛門、しばらくは冷や汗かいて唸り続けるだけだったが、やがて言った。
「そのほうの気持ちも分からぬではないが、わし一人で即答できる問題ではない。しばらくここで待つがよい。ただ、念の為に申しておくが、ここまで来て早まるでないぞ。わしが戻ってくるまで、この座敷も庭先も、血で汚すではないぞ。くれぐれも、早まるなよ」
鼠小僧に勝る大者
嘉兵衛の決意を表情態度から見て取った助左衛門は、しつこいぐらいにダメを押し、急ぎ足で出ていった。
半刻(1時間)後に戻ってきた助左衛門は言った。
「嘉兵衛、そのほうは、鼠小僧治郎吉という大泥棒の名前を知っているか?諸大名の屋敷に忍び入り、多くの金品を奪い去った盗賊だが」
嘉兵衛にとっては、思いがけない質問だった。
「鼠小僧は今年、お仕置きにあったが、次に河内山宗俊、片岡直次郎の名前を知っているか?」
「はい、存じております。二人とも、獄死、死罪を待つ身と聞いております」
「それを承知なら、後は言うまでもあるまいが、殿はそのほうを、これらの大泥棒、大悪人以上の男だと仰せになった。処分は後ほど決定するが、生前に一目だけでもそちの人相を見ておきたい、との仰せであった。さあ、お手打ちを覚悟の上で、御前に参上するがよい」
嘉兵衛は助左衛門と若い武士たちに囲まれて、庭先に連れ出された。白砂の上で待つことしばし…
「殿、ご出座!」
廊下から現れた直正は、正面の縁側に立ったまま、鋭く一喝を浴びせた。
「嘉兵衛、直答許す、頭を上げい!」
静かに頭を上げる嘉兵衛。
「そのほうは、いったい何の為にこのようなことをたくらみ、当家に多大の損害を与えた?」
「南部藩六十万の領民を、餓死から救う為でございます」
「この夏、処刑となった鼠小僧も、似たようなことを言って義賊をきどっていた。そのほうの行為は、それと同じだとは思わぬか?その罪に対する、つぐないの覚悟は出来ておるか?」
「はい、もとより命は捨てる覚悟、殿のお刀の錆ともなれば、幸甚に存じます。しかし、ご家老井上様をはじめ、南部藩のお三方にも、他のどなたにも責任はございません。手前の命に変えまして、何とぞご容赦を…」
「そのような指図は受けぬ。…三之助!」
若侍の一人が白砂の上にひれ伏した。
この後、なかなか厳しいやりとりが続くのだが、結局、嘉兵衛は、城代家老井上三郎兵衛の甥にあたる、井上三之助が処刑担当となって、斬首の刑と決まったのだった。
首筋が冷たい…
西方向、極楽浄土の方を向いて座った嘉兵衛は目を閉じ、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」と念仏を唱え始めた。
一瞬、首筋に冷たい感触がよぎる。しかし、痛さはない。
「あっぱれである」
直正の声があり、目を見開いた嘉兵衛には、微笑する直正の顔が映り、助左衛門も微笑みつつうなずいていた。三之助は刀を鞘に納め、襷をはずしにかかっている。
「こ、これは…どうしたことでございましょうか?」
「商人には惜しい男だ。わしも家来に、そのほうのような男を持ちたいものだ。最初から斬らせる積りはなかった。しかし、人は今際のきわに、必ず心情を吐露すると言う。斬首の場に臨んで誰にも責任を押し付けず、他人の命乞いまでする心意気には、感服いたしたぞ」
「殿様…」
「国元よりの報告では、鍋島藩は今年は大豊作、例年よりも一割以上の増収が見込めるとのことであった。三十五万七千石に比べれば、三万石は一割足らず、これは天から与えられた余剰分である。それで六十万人の命が救われれば、これほど嬉しいことはない。そのほうのお陰で、わしも思わぬ善根を施したというものだ」
「そ、それでは、私の罪は…」
「この三万石にしたところで、無償で差し上げても良いのだが、それでは何かと示しがつくまい。長期年賦払いの件も、確かに承知いたした。まだまだ、何かと話を聞きたいところだが、生憎と今日は所用でな、南部藩お屋敷でも、そのほうの安否を気遣っているであろうから、帰ってやるが良い。それでは、南部藩ご家来衆によろしゅう」
ゆっくりと廊下を去ってゆく直正の後ろ姿を見送った嘉兵衛は、白砂の上に身を投げ出して、男泣きに泣いた。後ろから、助左衛門が声をかける。
「嘉兵衛どの、寿命の縮まる思いをさせて悪かったが、殿はあれで、案外に芝居っけがおありでな、嘉兵衛という男は、武士にも劣らぬ人物と思うが、一つこちらも、芝居を打ってその本音を見届けてやろう、という仰せであった。悪く思ってくれるな」
殿の茶目っ気
「悪く思うなど、とんでもございません。確かにお殿様は鍋島家始まって以来のご名君、もしもお家に危急迫ることでもあり、手前がお役に立てることがありますれば、粉骨砕身、死力を尽くしてお役に立ちましょうぞ」
嘉兵衛は南部の屋敷に戻ったが、出迎えた三人の重役は、既に死装束に着替えていた。
そして、今日の一部始終を聞いた三人は涙を流し、中には大声で号泣する者もいた。
この事件は、幕末列藩史の中でも、他に類を見ない逸話として、「南部藩史」「鍋島藩史」など、公式の記録にも残っている。
嘉兵衛にしても、この事件は一生忘れえぬ経験として、その一子清三郎、後の高島嘉右衛門に語った。
そして、清三郎は、「その予言、神に通ず」「人か神か」と称えられ、明治の易聖と謳われることになったのだが、まさにこの父にしてこの子あり、であろう。
「積善の家に余慶あり、積悪の家には余殃あり」
これは、人間の善行悪行は、本人の代で現れずとも、子孫の代に報いがやってくる、と解釈して良いだろう。まだ、深い意味があるのかもしれないが…。
ただ、積善の余慶というのは、決して幸福に安泰に暮らせる、という意味ではない、と筆者は思う。
四柱推命などを学んでいると、だんだん分かってくるのだが、人間の運命というのは、一種の「循環」である。
「運」であるから、運河、運送、運搬というように、「運」のつく言葉は全部動く。命が運動するから「運命」である。
動けばいろんな局面に出くわす。高い場所もあれば、低い場所もある。易などの運命学に関わる者の辿る道は、決して平坦ではない。ぬくぬくと、綺麗な座敷に鎮座して客を観るわけではないのだ。
嘉右衛門は成長してまさに、「九天九地」を目の当たりにすることになるのである。
九天九地4へ続く
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