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九天九地11:九天九地が口を開け

墓所の修復

工事完成後、丸二日間というもの、泥のように眠りこけた嘉兵衛は、次に南部藩江戸屋敷を訪ねた。
南部藩は先代嘉兵衛が間に入って一肌脱ぎ、鍋島藩から窮状を助けられたという経緯がある。嘉兵衛は家老の楢山佐渡に会った。

「大変申し訳ないと思いながらも、鍋島様御屋敷の建築を仰せ付けられまして、日夜を分かたぬ仕事が続きました。ご当家へのご挨拶が遅れまして、面目次第もございません。鍋島様のほうのお仕事は目出度く終了いたしました上は、ご当家のほうの御用を、遅ればせながら承りとうございます。何なりとおおせ付け下さいますよう、お願い申し上げます」

「おおそうか、その方の家にはいちおう使いを出したのだが、鍋島様の御用で忙しいと聞き、そのまま立ち帰ったという。先年、当藩の飢饉のさい、鍋島様のおはからい、われら一同、骨身に沁みて忘れはせぬ。そのほうが鍋島様のおん為に全力を尽くすのは、われらの名代のようなものだと、陰ながら喜び感謝していたところである。われらのことなど、二の次、三の次で良い。嘉兵衛、ご苦労であった」

「ありがたきお言葉でございます」

楢山佐渡も、幕末の陪臣達の間では指折りの賢臣とうたわれた人物である。ものの道理がわかっている。

「そのほうに頼みたいこともないではないのだが、如何にも疲労の様子、まことに無理もないことと思う。ここ数日はゆっくり休養を取り、改めて出直して来てはくれぬか。仕事の話はそれからにしよう」

「お気持ち、有難うございます。そうさせていただきますれば、まことに助かります。しかし、その前に、お見舞い代わりの一仕事、この場でご許可をいただけませぬか」

「というと…?」

「この二日間、あまりの疲労に万事を忘れて眠り続けましたが、その間に手代達を遣わしまして、御当家の菩提所のお墓のご様子、つぶさに検分させました」

「な、なんと…それは…、そこまで…そこまで心を配っていてくれたのか…」

「はい、白金の瑞祥寺、芝の金地院の墓石七十余基、ほとんどが転倒いたしているとの報告でございます。このままに捨て置きましては、南部様の御家名にもかかわりましょう。幸い地震以来まだ40日も経ちません。ここ数日のうちに御墓所の修復を終われば、人も感心いたしましょう。この費用のいっさいは、手前がお引き受けいたしますので、なにとぞ御心配なきよう。日頃の御愛顧にこたえさせていただくまででございます」

「嘉兵衛、よく言ってくれた…。万事よろしく頼んだ…」

この混乱の中で、嘉兵衛のこの気配りには、さすがの楢山佐渡も目をしばたたいて、声にならない感謝の念に浸るばかりだった。

もちろん、嘉兵衛は期待を裏切らなかった。
中五日の間に全ての墓石がきちんと据え直され、そればかりか、欠けた部分はきれいに継ぎなおされ、苔を落として磨きをかけ、まるで新しい墓と見違えるほどに、完全修復を終えた。

七日目にそれを検分に来た南部藩の家臣は、自分の目を疑う思いだった。
もちろん、墓石が倒れたのは南部藩だけではない。しかし、墓石の修復を済ませたのは、南部藩が最初だったのだ。
屋敷の修復が手付かずなのに、墓の修復が先に行われたことは、屋敷を立派に建て直すよりもなおいっそう、世間を深く感服させたのだ。

貧乏藩とあざけられていた南部藩は、これで大いに見直され、南部大膳太夫の名は、孝子として世に謳われた。その一方、この一件での遠州屋嘉兵衛の名はほとんど伝わらなかった。
しかし嘉兵衛にはそんなことはどうでもよかったのだ。何しろ、私(わたくし)しないという約束の元に、この地震で男を上げたのであるから、天地神仏に対する約束を守っただけである。

工事費の成り行き

南部藩墓地の修理が済んだ頃、鍋島家からは工事費の請求書を差し出すように、との沙汰があった。
出来上がった三軒の屋敷を検分し終わった直正候が、その仕事ぶりにいたく感心され、一日も早く工事費を払ってやるように、との言葉があったと言う。

ここで問題なのは、請求額である。嘉兵衛は一晩思案した…。
当時の幕僚達の間では、商人を蔑視する傾向が強く、商人として当然の行為でさえ、白眼視する向きがあった。特に、天変地異の際に当然のように発生する物価上昇に対しては、それを利用して巨万の富を築いた者は、吟味の上入牢という、厳しい処罰の可能性さえあった。

嘉兵衛の出した結論は、工事費用の実費、大工や職人の手間賃はありのままに書き出し、材木の費用は鍋島藩のほうで、地震の翌日の市中の値段を調べてもらって平均額を出し、その合計に五分の口銭を上乗せする、というものだった。
これならば材木の値上がりぶんはそのまま儲けとなり。取調べを受けても咎めを受ける恐れはない。

この計算法はそのまま認められ、代金は即座に支払われた。町奉行所から鍋島藩へ問い合わせがあったが、辻褄があっているので咎められる筋合いがない。ここで嘉兵衛が得た利益は、約二万両に上った。

九天九地の口が開く・「坎為水」
こうして、江戸でも有数の商人として頭角を現した嘉兵衛だが、大地震で九天に登ったのも束の間、この頃から九地のほうの口が開き始めたのである。

それは、地震で破壊した南部藩江戸屋敷の工事請負あたりから、はっきりした形を取り始めた。

安政三年、南部藩からこの工事の相談を受けた嘉兵衛は、五万五千両の予算でこれを引き受けた。ただし、木材は南部領内で切り出したものを使い、そのぶんは工事費からさっぴくという、南部藩にとってはけっこう得な条件だった。

3月から工事開始だったが、何と言っても急を要する仕事の為、まず嘉兵衛の手持ちの材木で工事にかかり、それに見合うだけの材木は、後日現物で埋め合わせるという手筈になっていた。
雪解けを待って伐採された木材は、筏を組んで北上川を下り、石巻港から船積みされて深川木場に運ばれてきた。

8月15日のことである。
南部藩邸の工事は順調に進んでいたが、この日の江戸は、空前と言われたほどの強い台風に直撃された。
深川を、津波のような高潮が襲った。永代橋は橋桁が折れて橋全体が崩れ落ち、三十三間堂の屋根は暴風に飛ばされ、一里も先の閻魔堂の境内に落ちていったとも言う。

深川木場の材木置き場の被害も、惨憺たるものだった。南部藩から回送してきた材木のほとんどすべては、この高潮で海へ流れ出し、回収不能になってしまった。半分以上工事が進んでいた南部藩邸も、大変な被害を受け、根本的なやり直しが必要なところさえ出て来た。

嘉兵衛はこの時、江ノ島神社に詣でていた。
海の神の竜神さま弁天さまに願って、台風を収めて貰おうという望みでもあったのだろうか。
しかし駕籠を飛ばして江戸へ帰って来たところ、目の前の被害は想像をはるかに上回っていた。さすがの嘉兵衛も二日間は言葉もなく、対応策も立てられないまま、暗然となってしまった。

しかし、この時代、商人の生きる道は一つしかなかった。当時は建築工事を請け負う者は、天災などの不慮の事態が起きても、決して工事の中止は許されなかった。
約束の期限が遅れることは致し方ないとしても、必ず工事を続行し完成させなければ、信用をなくして二度と請負はできないという、厳しい掟があったのである。

こうなったら損得ではない、信用だ。嘉兵衛は自分に言い聞かせた。3日目に、やっとその腹を決めた嘉兵衛は、とにかく、南部藩邸の工事を再開した。
しかし、前年の地震に続くこの台風被害のために、江戸の木材相場と職人の手間賃は、再び天井知らずに暴騰していた。

借金につぐ借金を重ね、どうにか工事は完成したが、その損害や甚大。前年の利益を全て吐き出した上で、残った負債の総額は、実に二万両。万両分限と言われたのも、わずか一年という短期のことだった。
世間の目は冷たいものだ。

「火で儲けたものを水で吐き出したのか」

「なまずの親類も竜神さまには勝てなかったようだな。江ノ島の弁天さまもご利益はなかったようだ」

借金の利息の払いだけでも並大抵のことではない。さまざまの難関を乗り越えて来た嘉兵衛だったが、これまでで最大の悪戦苦闘が始まった。

嘉右衛門翁は陰遁生活に入ってから、この時期の心境を振り返り、「毎日毎日、重い石を背負って激流を遡るような思いだった」と述懐している。

このような苦しい状況の中で、ある日突然、新天地が開けてくるのである。

九天九地12へ続く

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