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シェアハウス・comma /河野 絵梨花 編
この作品は文芸誌・文活のリレー小説シリーズ『シェアハウス・comma』の第6話です。シリーズを通して読みたい方はこちらのマガジンをご覧ください。
「河野さんは、頼りになるよ」
上司にそう言われて、そこにどの程度の本心がこめられているのか勘繰ってしまった。定時過ぎたばかりのオフィスを出ると、金曜のせいか街はどこか浮き足立っている。
秋の季節にまとわりつく雨の気配が嫌いだ。一年前の雨の日、ちいさな嘘をついたあの日からずっと。
「絵梨花!」
トンと肩をたたく手は、同級生だった。「久しぶりだね。今、帰り?」
「うん。何してるの?」
「みんなでお茶してた」
みんなで、の一言が心をかすかに曇らせる。大学の四年間、お互いのアパートに入り浸っていた間柄だ。きっと共通の友人たちと会っていたのだとすぐに察しがついた。そうか、私は、いつのまにか呼ばれない人になってたんだ。
「こんな時間に会うなんてね。絵梨花って、深夜までバリバリ仕事してるイメージだから」
もしかして話の種にされていたのか、と心細さが過ぎる。彼女は一方的に盛り上がった。
「どうなの、外資系って。今の時代に転職でキャリアアップなんてすごいよ。しかも新卒で入れなかった第一希望の企業に。羨ましいな、憧れちゃう」
「羨ましい」とか「憧れる」という言葉を散りばめて話す彼女を、白々しいと思ってしまった。あなたと共有できることはもはや無いと、やんわり境界線を引かれているような気さえした。
「ひょっとして海外赴任とかもあるんじゃないの? すごいよね。もう私なんて何の冒険もできないよ」
「ないよ、そんな話。それにもう冒険する年じゃないし」
若かった頃は、30歳なんて永遠に来ないと思っていた。自由な時間と空間をたっぷり与えられて、でもそのことに気づきもしなかった。一緒に夜遊びして泥のように眠り、マックでハンバーガーをたべたりした彼女はもうどこにもいないんだな、としみじみ寂しさが募る。
「えー? さては、恋人でもできたか」と、的外れな返しをする友人を、曖昧な笑顔で軽くいなした。
「ごはん作りたくないなぁ。でもちびたちがお腹空かせて待ってるから行かなきゃ」
帰る場所がある人の「またね」は重力がないほど軽くて、足取りは迷いがなかった。人でごった返す駅へ向かう彼女の背中は、あっけなく雑踏にまぎれて見えなくなる。
冒険。そうは言っても、何一つ景色の変わらない場所に立ちすくんでいるのは自分で、飛躍しているのは彼女たちの方なのだった。結婚、出産、マンションを購入して、仕事復帰。まるで現代のファンタジーみたいなそっち側の人生に、もはやどれだけ手を伸ばしても届くことはないだろうな、と思う。
だから、かもしれない。理津子さんの誘いに乗ったのは。そして同時に、あんな嘘をついたのは。
理津子さんの提示したシェアハウスの条件は申し分なかった。とびヶ丘から徒歩20分の立地で、家賃は五万円。プラス毎月ささやかなプレゼントを贈ること、以上。慣れない外国での出来事とはいえ、ただ傘を貸しただけのご婦人が、なぜそのような奇特な申し出をしてくれたのか今でもよくわからない。でも迷いはなかった。すぐに入社以来住んでいた会社近くのアパートを引き払い、理津子さんがオーナーを務めるシェアハウス・commaに入居した。
「comma」という名前が気に入ったことも、めずらしく行動力が出た理由の一つだ。それは「読点」、つまり根付くための場所ではなく、今それが必要な人のための仮住まいの場所。そこへ居ればいつか大きな流れが、正しい「冒険」へ自分を押し流してくれるような気がした。人の及ばない何か不思議な力で。でも。
もうすぐあれから一年になる。ということは、もう一年も偽りの自分を演じ続けているわけだ。シェアハウスまであと数歩のところで、ぴとん、と最初の雨粒に命中され、神様にこのやましさを見破られているような、後ろめたい気持ちで玄関のドアを開けた。
「絵梨花さん、共用ポストにお手紙入ってましたよ」
共有スペースへ足を踏み入れた時、パタタ、とかろやかな足音で近づいてきたのは白洲彩絢だった。この春から働いている、管理人(見習い)の女の子だ。
「……あの、」と不思議そうに首を傾げられて、初めて自分が彩絢に見とれていたことに気づいた。みずみずしい綺麗な19歳の肌は、もしかしてノーメイクかもしれない。でもそれだけじゃなくて、彼女の頬にかすれたように付着しているものが目につき、なんだろうとよく見たら、砂粒だった。
指摘すると、手鏡をのぞき込んで「あ! 泥ついてる」とはにかんで笑った。口調といい仕草といい、いちいち都会育ちのお嬢さん感が否めないけど、でもそれはあざとさというより、純粋な心の動きからきているようにも思える。彩絢は、頬をぬぐった手を消毒し、白い封筒を差し出してきた。
「河野絵梨花さま、って書いてあるだけで切手もないから、直接投函されたものだと思います。commaの誰かからでしょうか……どうかされました?」
封を開けると、何の変哲もない白い便箋が現れた。
「……」
広げた便箋を折りたたむよりも先に、彩絢がそれをつまみ上げた。返して、と言おうかと思ったけれど、動揺を悟られかねない言動を慎みたい気持ちが勝った。年上ってつくづく厄介だ。
「え、えっ、これ」
ゴミ箱に向かおうとする行く手をふさいで「ほら」と彩絢がまとわりついてくる。
「これ、『あなたのそういうところが好きです。』って書いてあるんですけど! やばくないですか?」
「書いてあるね」
今、自分に出せるせいいっぱいの冷静なトーンで相づちを打つ。
「これって、これって……もしかして」
ラブレター!? と言いかけた彩絢をさえぎって、言った。
「ただの、いたずらだよ」
たちが悪い。そう思うと、封筒ごとくしゃくしゃに丸めたくなった。彩絢はさらに「ちょちょちょっと、」と腕にしがみついてきて離してくれない。さて、どうしたものか。
「でも、でもこの手紙! ものすっごい綺麗な字で」
だからいたずらなのだ、とわかるほど経験を積んでいないのだろう。真面目な彼女の純情をむやみに傷つけるわけにもいかないし、かといってここで同意を示すのもめんどくさい展開になりそうだ。結局、曖昧な返事でかわして手紙をカバンにしまい、逃げるように206号室へ帰った。
◇
中性的な、整った筆跡だった。
『あなたのそういうところが好きです。』
——いやいや。いくら何でも。ラブレターって。
装飾の少ない、簡素な部屋。いかにも仮住まいといった趣のソファベッドは、最初の頃は手狭な感じがして慣れなかったけれど、今となってはすっかり居心地の良いプライベートスペースだ。まさかここで差出人不明の手紙と向かい合う日が来るとは、思いもしなかったけれど。
文面を眺めていると、この「そういうところ」が妙に気になってくる。最近誰かに対して何か特別な言動をとっただろうか。あれこれ思い巡らせるうちに、ひとつ思い当たることがあった。先週の土曜の夜、シェアハウスの住人たちで開いたパーティでのこと。あの時の顛末とこの手紙の内容は、どこか繋がるような気がしないでもない。
「三善さんの転職祝い、やっとできますね」
この日のためにホールケーキを準備したのは彩絢で、集いには彩絢を含めて6名が参加していた。
101号室に住んでいる三善さんは、新潟の高校を卒業後すぐ就職のために上京したらしいけれど、どこか都会に染まりきっていない素朴さのある好青年だ。「おめでとうございます」と皆から水を向けられ、「ええ、はい、まあ」と終始照れくさそうだった。
話題は三善さんの新しい仕事のことから、皆の仕事の話へと移り、やがて流行っている映画や、近所のおすすめの店など他愛のない雑談に落ち着いた。彼が転職活動をしていたことなんて知らなかった。でもそんな気後れなど心配無用の、和気あいあいとした集いだった。
じゃあそろそろ、と誰からともなく解散の雰囲気になった時、ダイニングテーブルにカップの跡が光っているのが目についた。
それで、なにげなく口にしてしまったのだ。
「使用後、各自で消毒するようにしませんか」
ひとりになり、言わなくてもよかったと思った。他意はなかった。ダイニングは流動的な人の出入りがあるから、ルールがあれば合理的だと思ったのだ。最適化は仕事の基本だ。でも、それが全員にとっての最善とは限らないし、何より三善さんのお祝いの場としてはあきらかに相応しくなかった。水を差すようなその言葉に、三善さんが「ですね」と答えてくれたことで場が持ったけれど、結果としては彼を加担させてしまい、後味の悪さが残った。
でも、と思う。
この手紙がラブレターとまではいかなくても、ただシンプルな好意から書かれたものであると仮定するなら、(そして彩絢の言ったようにシェアハウス内部の人間からとするなら)例えば差出人は三善さんである可能性もあるわけで。その文脈で考えれば『そういうところが好きです』の「そういうところ」の示す意味もはっきりする。
それにしても、シェアハウスの人間関係はつくづく独特だ。ほとんど毎日会っているのに家族でも恋人でもなく、ある程度の個人情報は知っていても深く干渉することはほとんどない。同じ時間と空間を共有しながら、知っていることは表面的なことに限られている。
例えば、隣室の205号室の女性——薙さんとは、「お隣さん」とはいえ一度も個人的に話したことがない。中庭で物静かに煙草をくゆらせているのを何度も見かけたから、騒がしいのは好きじゃないんだろうと思ってなんとなく話しかける機会を見つけられずにいた。とびヶ丘のショッピングモール内にある100円ショップに勤務していて、そこではスーパーバイトリーダーを務めている、らしい。
思い浮かぶ印象といえばその程度、という間柄の薙さんが、突然、静かに泣いている——
今、思いがけずそんな場面に出くわしたものだから、息をのんだ。
眠れない夜いつもそうするように、階下のキッチンで紅茶を淹れようと思った。昼間の勤め人が多いこのシェアハウスに夜更かしをしてキッチンを使う人はほとんどいないらしく、それで何の不都合もなかった。今夜までは。
時刻は25時。ダイニングテーブルに、マグカップの濃い影が落ちている。この距離からでもそれが冷え切っているのが分かった。咄嗟に飛び込んだ物陰に縮こまって、さてどうしようと逡巡する。
薙さんは、ふうと小さな息をつくと、読みかけの本にしおりの紐をそっと挟み込んだ。
そっか、この人、本を読んで泣いたりするんだ。”スーパーバイトリーダー”という肩書きにはちょっとした揶揄も含まれている気がして、仕事はできるけど集団になじめない不器用な人、というイメージを勝手に抱いていた。でも、なんて豊かな感情を持つ人なんだろう。潤んだ目から頬を流れるひとすじの涙があまりにもきれいで、触れてはいけない一枚の絵を見ているみたいに目が離せなかった。
「この本、」
薙さんはタオルハンカチで手早く涙をふき取り、顔を上げて微笑んだ。あっさりと、初めからそうするつもりだった、とでも言いたげな仕草だった。
「図書館で借りたんです」
「あ……、すみません、お邪魔してしまって」
「いえ、ここ共有スペースですから」
薙さんは落ち着いた口調で答えた。少し年下だろうと思っていたけど、もしかしたら同世代かもしれない。それ何の本ですか、と問いかけて口をつぐむ。泣くほど心動かされた本を、そうたやすく他人には教えられないのではないか。まるで心の中をまるごと晒しているみたいで気恥ずかしい——私だったら。
「本当は別の本を借りたかったんですけど、それは貸出中だったんです。がっくりしてたら、この本を司書さんがおすすめしてくれたんですよね。きっと好きだと思いますって」
図書館へ足繁く通っているのだろうか。本が好きな人であることは確かだ。それは良かったですね、という相づちではとても言い足りない気がしたので、少し考えて答える。
「第一希望じゃなくても、案外、思いもよらなかったものの方が自分にフィットすることがありますよね」
薙さんはやわらかい表情で「あ、わかります」と頷いてくれた。なんとなくよそよそしかったお隣さんと何かがささやかに通じ合えた気がして、じんわりと嬉しい。その嬉しさは偽りなく、本当の気持ちだ。でも、自分で言ったことなのに、自分にあてはめることは難しい。
「さっき、泣いちゃいました。気づかれましたね」
「……すみません」
「謝らなくていいですよー。本当のことだから」
薙さんは、何の気恥ずかしさも気まずさも感じていないみたいに言った。それから、
「河野さんのそういうところ、好きです」
と言った。
薙さんは後片付けをしながら、ショッピングモール内に図書館の返却ボックスがあるから便利ですよ、などと教えてくれた。去り際に除菌シートで身の回りをさっと拭くことも忘れていなかったが、それは決して、当てつけのような大げさな動作ではなかった。と、思う。
◇
中庭の扉が開け放たれているせいで風通しがいい。あかるい日射しにはためく洗濯物の間に、白いエプロン姿の彩絢の姿があった。昨夜降り始めた雨はどこへ行ったのだろう、じきに現れるとふんでいた秋雨前線も遠ざかっていくような眩しさだ。
「あ、絵梨花さーん」
「早いね、土曜なのに」
そっけない朝の挨拶を気にもせず、彩絢は「考えてみたんですけど」と、縁側に走り寄ってきて早口でまくしたてた。
「やっぱり、いたずらじゃないと思います。commaの誰かがどうしても絵梨花さんに伝えたかったんですよ。告白ですよ! こ・く・は・く。最初は男の人かなって思ってしまったんですけど、でもよく考えたら女の人かもしれませんよね。それに、『好き』って恋愛の好きじゃなくて、人として好きっていうのもありですし」
自分が一晩もんもんと考えたことを凝縮して話してくるものだから、つい苦笑いがもれた。子犬みたいにくりくりしたまあるい目が見つめてくる。
「若いなあ」
便利な一言だ、と思う。自分も若い頃はこんな言葉をかけられるのが鬱陶しくて仕方がなかったが、いざ自分が年長者の立場になってみれば、彼らが何を思っていたのかよく分かる。
「年齢は相対的なものですよ。上には上、下には下、ただ階層があるだけです」
もっともすぎて、反論できなかった。自分もこれほどの賢明さがあれば、人生で失わずに済んだものがもっとたくさんあったかもしれない。いや、賢明だからこそ失う無垢もあるのだろうと、彼女の白いエプロンにまた付着している泥を眺めながら思った。雑草の手入れでもしていたのだろうか。
「でも算数ができないから中学に上がりません、とは言えないでしょ。成人式を欠席するから20歳にはなりません、って訳にもいかないし」
年齢はそれなりの通過点を孕むという一般的なことを言ったつもりだった。しかし彩絢の表情が翳ったのを見て、しまったと後悔した。彩絢は希望の大学に入ることができず、理津子さんに拾われるような形でここへ来たのだ。
「……です、ね」
彩絢は、自分を納得させるように答える。彩絢の方が大人なのかもしれない、と思った。
ふたりでキッチンに戻ると、甘い香りが満ちていた。
「三善さん、朝ごはんですか?」
じれったそうにカウンターを覗き込む彩絢の目の前に、ホットケーキが焼きあがっている。器用な手さばきで二枚、三枚と重ね上げていく三善さんは、白いコック帽がもしあればきっとよく似合うに違いなかった。
「もしよかったら、彩絢さんと河野さんもご一緒にどうですか? 自分ひとりじゃたべきれないんで」
いえ、と遠慮しようとすると、彩絢が「いただきます!」と即答した。それからひらりとキッチンに飛び込み、ケトルでお湯を沸かし始める。アソート・セットの紅茶の箱を開けて「絵梨花さんはどれにします?」と有無を言わせない勢いだ。19歳の新米探偵は、今度は目にいたずらっぽい色をしのばせ、意味ありげな目線をよこしてきた。三善さんに探りを入れてみましょう、といったところだろうか。
「すごい。こんなに厚みのあるホットケーキ、自分で焼いたことないです」
「生地を、あまり混ぜないほうがいいですね。粉が残ってるくらいのほうが膨らみます。粉の配合によって、ただ膨らませるんじゃなくてふわふわとかもっちりとか色んな食感が生み出せるんですけど、まあそれは企業秘密です」
ホットケーキのことになると急にいきいきと饒舌になる三善さんは、なんだか可愛らしかった。いつのまにかバターとシロップ、ジャムがテーブルに並べられていて、手際の良さにも見惚れてしまう。
「さすが製粉会社出身ですね」
知っているデータを引っ張り出して話しながら、妙にどぎまぎしてきた。彩絢のせいで、なんだか調子が狂う。
「というより、趣味ですね。おれ、甘党だから、洋菓子店の営業は楽しかったな」
「すっごくすっごくおいしいです」
彩絢はぺろりと一枚をたいらげ、紅茶のおかわりのために席を外した。残された三善さんとふたりきり、向かい合って甘い香りに包まれているこの想定外のシチュエーションが非常に気まずい。いつもよりリラックスした雰囲気の三善さんの、セットしていない前髪もブルーのボタンダウンのシャツも、爽やかすぎて直視できなくなってくる。
「……あの、みんなでケーキを食べた日のことですが」
彩絢がこちらを向いていないことを確認し、小声で三善さんが言った。自分の転職祝いとは言いづらかったのか、そんな言い方をするのが奥ゆかしかった。
「各自で消毒する提案、河野さんが言ってくれた時、心の中でガッツポーズしました。おれもずっと前から考えてて、でも言いづらかったので」
ふと目が合い、心臓の早鐘を隠すためにうつむく。当たり障りのない返事をするのに精いっぱいで、ホットケーキの味はもっとわからなくなった。
なんだ、そうだったのか。あの発言に三善さんが気を悪くしていなかった安堵と、当てが外れて残念な気持ちが交錯する。わざわざこうして直接伝えてくれたのだから、つまり手紙の差出人は、三善さんではないということだ。
◇
自室に戻り、どうしてもこの週末に終わらせたい仕事に集中した。進行中の滞っている案件を整理し、週明けにするべきことをまとめ上げる。時計を見るととっくに正午を過ぎていた。
ランチに出るのは億劫だし、適当な買い置きで簡単に済ませようと、階下のキッチンへ降りてストック棚を確認したところで、ダイニングテーブルに黒い服の女性がすわっているのに気づいた。こちらに背を向けているが、すぐに204号室の鹿島さんだと分かった。
——『話しかけないで』
黙々とパソコンのキーボードに向かう背中と、カタカタカタと永遠に続くようなタイピングの音がそう語っている。途切れることのないそれが窓を叩く雨音のようにも聞こえて、思わず中庭を見やったほどだった。
声をかける選択肢は最初から与えられていないようだ。いったん部屋へ戻ろうとすると、彼女の方から声をかけてきた。
「冷蔵庫にデザートがあります」
こちらが立ち止まっていることはわかっていそうだが、振り向く気配もない。まあ、それも無理はない。だって、鹿島さんなのだから。
この人はさすがに違うだろう、と手紙のことが頭をよぎり、彩絢の探偵気取りにすっかり感化されている自分に苦笑いする。まいったな。
「理津子さんの差し入れです。オープニングセレモニーにご出席された時のおみやげだそうです。駅前に新しくできたパティスリー。有名店とのことですが」
「あ……『ラベンダーズ』かな」
「店名は存じ上げませんが、母体は資本の大きな外資らしいです」
想定内だけど、急に降り出した夕立みたいにつめたい対応だ。突如、彗星のごとく現れた帰国子女のクラスメイト。端正な顔立ちで才色兼備、何を考えているかわからない、遠い異国のお姫さま——鹿島さんは、出会った時からそんな印象の人だ。フリーのプログラマーとして生計を立てているくらいだから優秀な技術者なのだろうけど、この人のこんな調子は、やっぱり苦手だ。
「ああ、えーと、フランス発祥ブランドの旗艦店ですよね。南仏の伝統的なレストランのレシピを受け継いでるとかいう……、ラベンダー畑で有名な、何とか村の」
沈黙が耐えられず、長ったらしい説明で間を持たせようとしてしまう。鹿島さんはキーボードを叩き、モニタから顔を上げようともしないで、
「ゴルド村」
と言った。いや、検索して欲しかったわけじゃないけど。
「そのゴルド村のバターケーキ、彩絢が人数分に切り分けてくれたものが冷蔵庫にあります。前のパーティの時もそうでしたけど、ケーキの大きさは全くもって不均等です」
そういえばそうだった。ホールケーキを切り分ける時。その場にいたのは6人だったにも関わらず、7等分にする、と主張する彩絢はしばらく生クリームと奮闘する羽目になった。どうやら、103号室の謎めいた男性住人(みんなからは「主」と呼ばれている)にもおすそ分けをしたかったらしい。
「美しくありません。完全なる円を7等分するなんて。もちろん彩絢の生真面目さは評価すべきですが」
ふ、と思わず笑みが漏れてしまった。生真面目はどっちだろう。独特な喋り口調や感性。いつも黒っぽい服で武装しているけれど、もしかすると、この人は月世界から人間界に降りてきたばかりのお姫さまなのかもしれない。
「算数では割り切れない数も、人の手で分ければ分けられる、ってことでいいんじゃないでしょうか」
そう言うと、ふり向いた彼女と初めて目が合った。小雨のように続いていたキーボードの音が止む。彼女の顔に疑問符が浮かんでいる。
「せっかくだから一切れいただこうかな。鹿島さんもいかがですか」
「結構です」
「甘いもの、嫌いじゃないですよね」
たたみかけると、彼女の表情に浮かぶ疑問符がますます大きくなる。おもしろい。
「コーヒーに、角砂糖を一つ。この間の時、そうやってのんでたから」
鹿島さんの表情が少し変わった。迷惑そうな、というよりは、頭に浮かんでいる疑問を解き明かしたいとその目が語っている。バターケーキをお皿に移し、それを持って彼女の向かいに着席すると、意外な質問が飛んできた。
「河野さんは、どうしてこのシェアハウスに住もうと思ったんですか。海外出張が多いからですか」
よりにもよってその質問か、と心の中で苦笑する。
「……シアトルで、理津子さんと知り合ったんです。シアトルって、雨の街と言われているんですけど、その日も雨が降っていて。理津子さんに傘を貸したんです。相傘って言うんですかね」
「ああ、あの傘。MoMAの」
と、まさか鹿島さんが自分の傘を認識しているとは思わなかった。思いもよらない人の記憶の中に自分があることが分かり、むずがゆい気持ちになる。ちょっとひねりのあるデザインだから、人の目につきやすいのかも知れない。「雨の日に青空を独り占めできる」という謳い文句に惹かれて購入した、内側に青空が描かれたスカイアンブレラ。
——もし宜しかったら、駅まで傘に入れていただけない?
ホテルの正面にはタクシー待ちの行列が出来ていた。その列を抜け出し、青空の傘をめがけて歩み寄ってくる人がいた。それが理津子さんだった。
——あなた日本人でしょう。ここへはお仕事で?
上品な婦人だと思った。たおやかな雰囲気ながら如才のない態度で、一定のラインより上の裕福層であることがすぐに感じられた。そんな人に、何か特別に見初められたような気がして舞い上がり、格好つけてしまった。
——はい。
——あらそう。お仕事は何を?
——本社がこっちにありまして。
——外資?
——です。
ふうん、と彼女は何の気なしに肩をすくめ、傘の内側を見上げて言った。
——この傘、いいわねえ。
「変わったデザイン」とか「雨の日が好きになりそう」とか、よく言われるそういうことをまた言われるのだろうと、さほど身構えずにいた。すると。
——自分をあざむいているみたいで、なかなかいいわ。
理津子さんは、そう言ってくすくす笑った。最寄りの駅までは5分とかからず、でもその短い間にもうcommaの話は持ち出され、名刺を受け取っていた。
——うちにきたらいいわ。あなたには似合わないでしょうけど、きっと、おもしろいことがあるわよ。
理津子さんのハリのある声が響く。記憶はそこで傘をたたむようにぷつりと途切れた。あの時からなのだ。ずっとあざむき続けている。理津子さんも、シェアハウスの住人も、同級生たちも、自分も。顔を上げると、鹿島さんと目が合う。それ以上踏み込まれるのが怖くなって、今度は自分から話し始めた。
「それにしても鹿島さん、フリーランスとして独立なんてすごいですね。なかなかできることじゃないと思います」
「いえ。ただ私にはこのスタイルが合っている、それだけです」
「ややこしい人づきあいに巻き込まれることは少なそうですね」
「はい。一人は寂しいと言う人もいますが」
一瞬、彼女の視線がここではないどこかを見たので、誰かを想いながら話しているのだとわかった。孤高のお姫さまにも、寂しさを気にかけてくれる誰かがいるのだ。
「……寂しいことと、一人であることは、イコールじゃないと思います。私は、一人のほうが寂しくないです。誰かといると、いっそう孤独が募るから」
我ながら気障なことを言ったかな、と口の中でバターケーキが甘ったるく溶ける。でも鹿島さんは笑うわけでも無視するわけでもなく、ふしぎなものを見るような目で耳を傾けてくれていた。
「そういう考え方もあるんですね」
と神妙に頷いたあと、彼女は静かに言った。
「あなたのそういう考え、好きかもしれないです」
ふとフォークを動かす手が止まった。そんなことを言われるような人間じゃない。
「あ、あの、やっぱり一口だけたべてみませんか」
答えを待たず、キッチンにバターケーキを取りに行く。やっぱり、ひどい切り分け方だ。さっきのと全然大きさが違う。
「……いかにも外国のお菓子。甘ったるい味」
麦色のケーキをゆっくりとのみこんで、鹿島さんは言った。
「ゴルド村の伝統の味ですよ」
たしなめると、鹿島さんはふふっと笑った。その目にあらわれた柔和なカーヴを見て、可愛い笑い方だと思った。
◇
それから二時間ほど鹿島さんと向かい合ったまま、それぞれ仕事に没頭した。意見を求めることも進捗を確認し合うこともなく、だからこれといって話すことは何もなかった。でもなぜか居心地はよく、ひとりで部屋にこもっている時よりも仕事が捗った。
鹿島さんに来客があったので、ひとりきりになった。窓の外に広がる空は厚いグレーの雲に覆われ、一雨きそうな気配だ。中庭の洗濯物はすでに引き上げられ、何も植わっていない石の鉢がポツンと寂しげに佇んでいる。背後に人の気配がしたのはその時だった。
「晴れ、時々曇り、ところにより雨。とは、言いえて妙ではありませぬかな。どのように転んでも、いかようにも言い訳できる」
「はい?」
声のした方を見ると、102号室の梶田さんだった。文筆家、と言うと聞こえはいいが、どこに何を書いているのかという皆からの質問を煙に巻き、のらりくらり暮らしている自由人だ。奥さんも子どももいると聞いて驚いた。正直、いいご身分だなと思う。
「お嬢さん、その食卓机。あまり力を入れてこすらないほうがよい、と思います。サーヤジョーも、同じようにする」
優しい口調ではあるものの、急に注意されたのでひるんでしまった。除菌スプレーに伸ばしかけていた手の行き場を失い、とりあえず引っ込めておく。
「サーヤジョー……?」
「若き大家、白洲彩絢嬢のことです」
「……はあ」
「この食卓机は、ヴィンテージだから、繊細なのですよ。昭和初期のものかと」
「えっ」
なめらかな手触りの、木のテーブル。いい感じに使い込まれているとは思っていたが、特別な価値のある物だなんて考えたこともなかった。昭和初期って何十年前なんだろうと頭の中で計算を試みるも、気が動転してそれどころではない。
「え? え? ——えっ……と、梶田さん、それ本当ですか」
「そうです。吉祥寺の由緒ある骨董屋で、理津子さんが特別に誂えたものです。では失礼」
きびすを返そうとする梶田さんを呼び止める。
「えっと、それはつまり、むやみにアルコール消毒とかをしない方がいいということですよね……?」
ダイニングテーブルは「ヴィンテージ」という言葉の魔法をまとい、もはや崇高ささえ感じさせた。もし本当なら何かそれなりの手入れ方法があるはずで、でも誰も(管理人の彩絢でさえ)それについて言及しなかったということは、知っているのは梶田さんだけなのだろう。いっそのこと三善さんの転職祝いの時に指摘してくれたらよかったのに。ひょっとして皆の手前で気を利かせてくれたのだろうか。いや、この人に限ってそんなことは。
「どうでしょう。そうは言っても今の時代ですからね。私も古き良き過去ばかりを顧みているわけではない。あなたの提案に皆が賛成した、それが正義になった、それで良いではありませぬかな」
質問の答えになっていない。はぐらかされているのか、それとも嫌味を言われているのか。梶田さんの言葉は雲を掴むみたいだった。
「おっと、どうか誤解なさらぬよう。私の身勝手な助言を許してくれたまえ。伝える必要はなかったのだが、どうしても伝えたくなってしまった」
ひとしきり丁寧な謝罪の言葉を述べる。本当にすまなさそうな様子をみると、この人なりの優しさがあるのかもしれなかった。
梶田さんはそれから文筆家の貌をして、最後にこう言い残した。
「結局のところ人間は、真実を伝えずにいられない生き物なのです。但し好きな相手に対してのみ、という条件付きで」
◇
社内システムに届くメッセージやメールに目を通し、優先度の高いものからさばいていく。日本語と英語の間には、双方の思い込みや言葉の定義の違いによる齟齬が生まれることもあるので丁寧に処理する。後輩の資料の中に曖昧な記述があったので、外部機関に問い合わせて得た回答も資料に追加しておいた。
上司は、ちゃんとそれに気づいた。
「河野さんは、やっぱり頼りになるよ」
目尻に皺が増えたな、とひさしぶりにまっすぐ上司の顔を見て気づいた。その言葉にどれぐらい真心がこもっているのか知る由もないけれど、たまには素直に言葉通り受け取ってもいいのかもしれない。いつになく、そんなことを思う。
定刻を告げるベルが鳴り、帰路に着く。天気予報はまだ秋雨前線を告げていない。でも、なんとなく日が短くなった。
「絵梨花さんおかえりなさい! あの手紙、誰からかわかりました?」
中庭で作業している彩絢の隣に並ぶ。彼女がこしらえたらしい寄せ植えを見て、思わず「おお、」と声が出た。ナデシコ、ゼラニウム、セージ、その他名前のわからない様々な種類の花が一つの鉢に身を寄せ合うように咲いていた。
先の彩絢の質問には触れず、話題をその鉢植えに向けた。
「これを作ってたんだ」
「はい。一種類の花を植えるより、こういうのが楽しいかなって思ったんです。一応イングリッシュガーデン風を目指してはみたんですが……。何かちぐはぐ感はありますけど」
「素敵だと思う」
本当にそう思った。世界の縮図というにはあまりにも小規模だけれど、そう錯覚してしまいそうなほど、夕風にそよぐとりどりの色や形の植物に目を奪われた。きっちりと色分けするでもなく、自然そのままのように、お互い無理のない距離感で存在しあっている、そういう感じが、とても良かった。
「どうして、これを?」
「理津子さんが、土でも触りなって。あんたに一番似合わないことをやってみたら、きっとおもしろいよって言われたんです」
土いじり、意外と似合うよ。そう冷やかすよりも、伝えたいことがあった。
「私、あなたの作ったこのちいさなお庭が好きだな」
ちょっと涼をとるために。あるいは風雨を凌ぐために。ふらっと腰掛けて肩を寄せ合い、そのまま短い季節を一緒に過ごす、そんな場所みたいで。
ああ、そうだったんだ。きっと今、自分は惚けたような顔をしているに違いない。一年前、たまたま出会ったご婦人に、自分が傘を貸したのだと思っていた。全然わかっていなかった。こんなに優しい相傘を差し出してくれていたのは、理津子さんのほうだったなんて。彩絢がそれを、こんな形で見せてくれるなんて。
彩絢は、はにかむように笑った。そして少しの間もじもじとエプロンや袖口をいじっていたが、「あ、」と急に元気な声を出し、私が手にしている紙袋を指差した。デンマーク王室御用達のフレーズで有名なチョコレート店の紙袋だった。
「それ、今月の理津子さんへのプレゼントですよね。この間の出張ってデンマークだったんですね! 先月はイギリス。羨ましいなあ」
「いつも、デパートで買うの」
世間話でもするように、さらりと言った。
「海外出張のおみやげじゃないの。私の勤務先、古い雑居ビルにある小さな会社。入社以来同じ部署で、ずーっと変わり映えのない仕事をしてる。地味な仕事でね」
就職活動は箸にも棒にもかからず、第一志望どころか、第二、第三、と軒並み落ちて、なんとか引っかかったのは名前も聞いたことのない会社だった。どうにか這いあがろうとしてはあきらめ、現実に折り合いをつけて、でもやっぱりプライドが許さなくて。
苦しかった。でも、嘘をついてしまってからの方が、もっと苦しかった。描かれた偽りの青空は、傘をたためば消える。でも自分が作り出した嘘は、ずっと続く。
「海外は、シアトルに一度旅行したことがあるだけなんだ。……ごめん。こんなこと打ち明けられても、困るよね」
たしかに梶田さんの言う通りだ。好きな相手に本当のことをちゃんと伝えると、胸に溜まった寂しさや良心の疼きが栓を抜いたように水位を下げる。commaの住人たちとも、初めから本当の自分で知り合えていたらよかったと思った。そうすればあんな手紙をもらって戸惑うこともなかっただろう。
でも、これは自分の感情をすっきりさせたいだけの身勝手だ。きっと困っているだろうと彼女の方を窺うと、きれいに切り揃えられた髪が、その横顔を隠していた。下を向いた長いまつ毛が不安げに瞬いている。
「……絵梨花さんの嘘つき」
ぽつりと言ったかと思うと、矢継ぎ早に続けた。
「嘘つき、だまされた、もう信用できない、私より大人なのに、ひどい」
「ご、ごめん」
「もういいです」
まさかそんなに思いつめるとは想定外で狼狽えた。彩絢の肩に触れようと手を伸ばしたら、彼女はそれをさっとかわして振り返った。
——あろうことか、ニヤリと不敵な笑みを浮かべて。
「でも、大切なことを告白してくれたから、あたしも告白しちゃいます。あたしもじつは、嘘をついていました」
「……え、」
「話を手紙に戻しますが」
彩絢は、軽く咳払いをして続けた。「あたし、偶然見ちゃったんです。あの手紙を共用ポストへ投函するcommaの住人を」
「ちょ、ちょっと待って」
「うふふふ」
意味ありげに笑いながら逃げていく彩絢は、ミツバチのようにすばしっこくてとても捕まえられそうにない。あたりに人影はなかったけれど、誰かがどこかで聞いているかもしれないと思うと気が気ではなかった。
「取引しますか? あたし、チョコレートは大好きですよ?」
彩絢は楽しくてしょうがないといったふうにこちらを向き、挑発めいた仕草で肩をすくめた。彼女の方が大人なんだろうか。いや、やっぱり19歳だ。彼女の頬で砂粒がきらりと光る。
——手紙の差出人がわかったとして。
その意味を考えては一喜一憂し、だるくても部屋を出る時はメイクをして、ふたりきりになってしまったら気まずくなって。
ああ、面倒くさい。commaの生活に雑多な面倒が満ちあふれる。こんな冒険は思っていたのと違う。なによりも彩絢に主導権を握られていることがくやしい。くやしいのに、わくわくしている。
<おわり>
この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』2022年6月号に寄稿されています。今月は連載・連作2作品と、ゲスト作家による短編2作品の小説5作品を中心に、毎週さまざまなコンテンツを投稿していきます。投稿スケジュールの確認と、公開済み作品は、以下のページからごらんください。
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