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きっと本当に悪い人なんて滅多にいないんだと思った話

お久しぶりです^ ^

今日は、「きっと本当に悪い人なんて滅多にいないんだろうな」なんてメルヘンなことを思うようになった、きっかけの話です。


その当時は、鈍器で頭でもぶん殴られたかのような強い衝撃で、もう悪者を決めるのなんてやめてしまおうっていう、どこか諦めのような気持ちでそんなことを思ったのですが、


結果として自分の気持ちを楽にするきっかっけにもなったから、このnoteに書こうと決めました。

父とした、母の話


大学に入ってからというか、
母が他界してからというか、
地元を離れてから少しづつ、大嫌いだった父のことを許せるようになりました。


両親が離婚した経緯は、なんとなくしか聞いていないし、
養育費のことも、父親が一方的に払わなかったと聞いていました。


それでも、大学に入るときの入学金を工面してくれたり、こうして母が他界した後に小遣いをくれたりしたのは、父親が父親であり続けようとしてくれた結果だと思うようになり始めていました。


そんなある日、地元に帰った折、買い物がてら父親の運転する車に乗っていた時のことでした。


ふと、母親の話になります。

生前の様子や、母方の家族のこと。


そして、離婚した後の話。


すると突然、父はあからさまにムッとした表情で話始めます。


「養育費はな、お母さんからいらないって言われていたんだよ」

「それが離婚調停になるとかならないとか、そういう話になって、急に養育費をよこせって言われたんだ」

「それでお前の家に呼ばれて、録音機を用意されて、家から出られないように仕向けられて。それで、無理矢理お父さんの不利になるようなことを証言させられそうになったんだ。」


と。


幼いころの記憶には、確かに弁護士がどうのこうのって母が話していた記憶がありました。


それに、父親は一切私たちとの面会を許されていなかったことも覚えています。


母がそんな酷いことをしていたのかという悲しみと、
同時に、そんなの父親がでっち上げた話に違いないという思いが、
頭の中でめぐり始めます。


だって母はいまだに、私にとって可哀想な人で、
私を命懸けで育ててくれた人で、
正義の味方に違いなくて。


大嫌いな父を認めようとしていたはずなのに、また大嫌いになってしまおうという思いになりました。


でも、どんなに歪んだ愛情でも、どんなに不器用なやり方でも、
父親は父親だからと、感情の処理の仕方を懸命に考えました。


ぐっと堪えて、やっと話せた言葉は、


「私は、お母さんの話も、お父さんの話も信じないことにする。」


それだけでした。

どっちも信じないと決めたこと


それでいい。どっちの話も信じなくていい。

どっちが悪いかなんて決めなくていい。

もう、昔のことはどうでもいい。

どんなに昔のことを話しても、お母さんは戻ってこない。


だから、もう、

誰かの悪口なんて言わなくていい。



この言葉は、それからの人生の中で、何度も何度も自分に言い聞かせることになりました。


父が言ったことが事実だったとしても、それは母が私たちを守るためにしたことなのだと、容易に想像がつきます。


それからというもの、私は極端に、
周りの人の行動の「動機」を意識するようになりました。


その人の行動には、必ず理由があるのだから、安易に善悪を決めるべきではないと。

たくさんの人と話して分かったこと

〇〇ちゃんって、ちっちゃい頃どんな感じだったの?

昔からそんなに優しいの?


「人の行動には必ず理由がある」ということを実感したかった私は、

時には自分の境遇も打ち明けながら、友人にたくさん話を聞いてみました。

すると、徐々に、いろんな人の意外な一面がわかるようになっていきます。


周りの空気を読みすぎるあの子は、昔にいじめられた経験があって、

完璧主義のあの子は、長女が故に厳しく育てられ、自分の失敗を許せずにいました。


話が長くて理屈っぽいあの人は、実は自分の喋りに自信が無いからそうしていたし、

優しすぎるあの人は、過去に人を傷つけた後悔をずっと引きずっていました。


誰かの悪口を言っている時、だいたいはその人の自己防衛の現れだったし

変にイライラしている人のほとんどは、日々の不満に対する八つ当たりでした。


人の行動には必ず理由があって、その元を辿ると、ほとんどはその人のせいじゃないことが多い。


だからその根本を理解してあげれば、きっと世の中はもっと優しくなる。


そう、言い聞かせれば言い聞かせるほど、不思議と自分のコンプレックスも許せるようになりました。

もう誰も悪者にしなくていい

私に自信がないのは、生活保護だった時の劣等感からきているんだろうなとわかり、

人の目を気にしすぎるのは、無条件に愛される経験が少なかったからかもしれないと考え始めます。


それなら、これから劣等感を癒していけばいいし、誰かに無条件で愛されることを実感したらいい。

そうやって少しずつ、「自分を悪者にしない」こともできるようになっていきました。

自信の無さや自己防衛は、内側に向けば自分を傷つけるし、外側に向けばイライラや暴言に変わります。

その人の昇華しきれなかった思いが、形を変えて表現されるだけです。


もちろん、世の中の全ての悪行を許すわけではありません。


でも、何か解決が必要なとき、その行動に至った経緯に目を向けるだけで楽になれることって意外と多いものです。


だからこそ、もう私は、誰かの悪口なんて言わなくていいかなって思っています。

それは、きっと自己防衛でしかないし、
そんなことで誰かの同意を買ったって悲しいだけ。


そんなことより、明日少しでも幸せでいられる方法を考えたほうがいい。


ここ数年で私が決めたことです。


もちろん、イライラしちゃうことだってたまにあります。

でも、できる限り、みんなで幸せになれる方法を考えたいものです。


*おわり*

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