「ファーザー」感想~高齢者視点の疑似体験~
0,基本情報
・日本公開年:2021年
・監督:フロリアン・ゼレール
・上映時間:1時間37分
・配給:日本→ショウゲート(博報堂DYミュージック&ピクチャーズ)、英国→LIOMSGATE、フランス→UGC
・受賞:主演男優賞(アンソニー・ホプキンス)、脚色賞
1,予告編
2,あらすじ
ロンドンで独り暮らしを送る81歳のアンソニーは記憶が薄れ始めていたが、娘のアンが手配する介護人を拒否していた。そんな中、アンから新しい恋人とパリで暮らすと告げられショックを受ける。だが、それが事実なら、アンソニーの自宅に突然現れ、アンと結婚して10年以上になると語る、この見知らぬ男は誰だ? なぜ彼はここが自分とアンの家だと主張するのか? ひょっとして財産を奪う気か? そして、アンソニーのもう一人の娘、最愛のルーシーはどこに消えたのか? 現実と幻想の境界が崩れていく中、最後にアンソニーがたどり着いた〈真実〉とは――?
引用:映画「ファーザー」公式
3,感想・レビュー(ネタバレ注意)
アカデミー賞主演男優賞・脚色賞を受賞した注目作、今回はパンフレットを購入していませんし下調べも行っていません。作品の内容に私の解釈や今までの人生の中で体験したことのみを紐づけてレビューを記載していきたいと思います。たまには率直な感想を書いた方が自分の捉え方を反映させやすいですからね(多分)
もしこの記事を読んでくださっている方の中で本作を鑑賞している方がいれば伺いたいです。「正直、訳わかんなかったですよね?」アンソニー・ホプキンス演じる主人公のアンソニーがオリヴィア・コールマン演じる娘のアンから聞いたと思っていたことが「何の話?/そんなこと言っていない」といわんばかりの態度を取られたり、同じ名前でも違う顔の人が出てきたり、急に時が進んだ…と思ったら同じセリフを言われてループしているように感じたり…起承転結ではなく、転転転結のような物語でした。(実際私自身も観賞中に「は?/どうゆうこと?」を10回くらい繰り返しました(笑))
ここから私の少ない映画鑑賞履歴で思い出されたのは「エヴァンゲリオン新劇場版:破」の終わりから「エヴァンゲリオン新劇場版:Q」の冒頭にかけての流れです。第10使徒の中に取り込まれてしまった綾波レイを救うために碇シンジはニアサードインパクトを起こしたが、急に空からカシウスの槍が飛んできて初号機凍結、目が覚めたら14年も経っていて、「行きなさい!シンジ君!誰かのためじゃない!あなた自身の願いのために!」なんて自分を促していたミサトさんに「あなたはもう、何もしないで」と言われる…
本作「ファーザー」はきっとエヴァと同じで、主人公と同じ目線・感覚で鑑賞しているので「訳わかんない」という感想を持つことができるんですよね。特に映画館での鑑賞では、スクリーンの枠組みが本のように機能し、我々は飛び出す絵本を見ているまたはファンタジー映画のようにその中に入っていくような不思議な感覚、それを強く感じることができました。見ている自分が高齢でなくとも目線が同じなので投影とまではいかなくとも鑑賞中に鑑賞者が思っていること感じていることがアンソニーと重なっているように思います。ここから、本作は「見る」映画ではなく「感じる・体験する」映画であり、高齢の方の疑似体験をすることができる遊園地のアトラクション的な鑑賞体験に仕上がっていたように思います。高齢者は当然自分を投影し、そうではない年代の人にとっても同じ目線での物語進行によって少なくとも試行間隔はすり合わせられるので全ての鑑賞者にとって一般的になっていたように強く感じました。小・中・高等学校とかで高齢者の疑似体験をするような授業時間があったかと思いますが、今後は本作「ファーザー」の鑑賞をカリキュラムや授業計画に組み込んでもらいたいですね。
全体として「感じる」映画ではあったように感じたものの、個人的に要所要所で映像や音響表現による物語展開への裏付けなどもきちんと行われていたように感じます。まず開始数秒、アンはアンソニーのいる家に向かっていますが、外観の構造が規則的なデザインに見えます。とても極端にいえば、「ビバリウム」(これはもっと意味がわかんない、どころかいまだに理解しきれていない映画なのでもし興味があれば是非。感想書いたんですけど全然浅いので、鑑賞後はYouTubeに上がっている考察動画を見ることをお勧めします。)みたいな感じ。
この規則的な構造、物語中でアンソニーが同じことを聞き返したりアンソニーにとって同じような日々が繰り返されることのメタファーとなっているかのようですね。私の身近なところで言うと私の祖母は耳が遠いためか、「もう一回言って」と私に要求することがよくありますから、そういったものを映像で説明しているのでしょう。同じような発言を受けたり同じような日々が繰り返された時の不安の感情は、直近鑑賞した作品だと「パームスプリングス」がそれに近いかと思います。
室内の中でのシーンでは扉が印象的でした。私自身、本作のどこが現実でどこが空想なのか明確に区別することができないのですが、少なくとも一つ言えるのは扉がアンソニーと他の人物との境界線として機能していたということです。作中でアンソニーと他の人物が一対一で会話するシーンが頻繁にあったかと思うんですが、その中で一方はドアの外、一方は中という構図が多かったように思います。廊下を歩いていたりとか、部屋の中で話をしそうな雰囲気でもどちらかは必ずドアの手前で止まっていたんですよね。高齢者アンソニーと一世代下の娘・夫・介護人とでは感覚(例えば時間が過ぎるスピード)や記憶力が違うことを象徴づける仕掛けでした。また、アンとアンソニーが別々の場所でほぼ同じタイミングで窓の外を眺めるシーンがあったような気がしますが、窓の外の景色は同じなのにそれを眺める人物によって家の中と外とを隔てる窓(境界線)に違った意味付けが持てそうな点に映画という芸術の多面性を感じますね。
音の観点からは「音楽」に面白さを感じました。アンソニーがヘッドホンを外すと消えるクラシック音楽(かな?)からはやっぱり本作はアンソニーの視点・感覚を疑似体験するものだということが分かります。また冒頭でアンソニーが紅茶をいれるためにお湯を沸かすシーンがあるのですが、その時にかかっている音楽とアンソニーの口ずさみ、音が全く嚙み合っていませんでした。ここからもアンソニーの感覚が他とはずれていることが分かるのかなと。人間という生き物は目から入る情報が大多数のようですから、引き立て役・脇役として音はささやかな裏付けを行っていたようです。
他にもいろいろあるかと思いますが、一番は「水道」の音が印象深かったです。僕の感覚かもしれませんが、本作は場面によって水道から流れる水の音のボリュームが変化していたように感じました。例えば冒頭のアンソニーが陽気に紅茶を準備するシーン。静→動の緩急で大きく聞こえただけかもしれませんが、実家で母と妹と暮らす私はここまで大きな水道水の音を聞いたことがありません。実家暮らしの方(特に兄弟がいて家族みんな仲良しな方)はわかるかと思うんですが、水の音なんて日常生活で「うるさ!」と感じることってまずないんですよね。それが本作最初の水の音はうるさいくらいに感じる。アンソニーが家族という組織の中で、もっと広く言えば社会の中でいかに孤独で存在の小さいもの(定量的な意味ではなく、弱いとか無力とかできることが少ないとかの定性的な意味)なのかということを示しているようでした。アンも水道を利用しますが、こちらは小さい音と大きい音が聞けます。小さい方に関してはアンの元気がなく、どこか弱弱しい様子(この直後、カップを落として割ってしまい、泣いてしまっていたかと思います)、大きい方は徐々に元気をなくしていく父アンソニーへの不安が増大するまたはそれによって自分の存在が小さくなっている、アイデンティティの欠落(アン→アンソニーの娘、アンソニーの付添人つまり個性がなくなっていってしまうこと)なんかも考えられそうですね。本作を語るうえで、日常的で普段当たり前のように聞いているけど意識していない水の音は重要な要素として挙げられるべき要素のように思いました。
本作、題が「ファーザー」なので最後は家族の話をして締めることことにしましょう。本レビュー冒頭でも語った通りアンソニーにとって、物語始まってから終わるまで訳の分からないことの連続でしたが、アンソニーは施設に入るまでは基本、自分の言っている言葉は間違いではない・介護人などいなくても自分のことは自分でできるというスタンスを取り続けました。リアルの場においては自分の日を認めない高齢者は「老害」だとか散々言われていますが、本作のアンソニーにおいては「娘の前で弱い自分を見せたくない/いつまでも威厳があるたくましい父でいたい」という心理状況が働いているのではないでしょうか。アンソニーは施設に入るまで、2度目の「いつまで我々をイラつかせるつもりだ?」という一連のシーンで痛覚(のようなもの?)を感じた時以外は娘や娘と関わりがある人物に涙はみせず、どころかきつい言葉を浴びせた人物すらいました。仕事を終えて特にやることがなくなった父は、この前で格好良く見せることが唯一の生きがいなのかもしれません。時には娘のパートナーに「施設にいれるべきだ/病気だ」と言われたり、どこか下に見られているかのような扱いを受けたり(これは妄想の方かもしれないです)しんどい出来事は多々ありましたが、最後まで弱さをみせることはありませんでした。
そして施設に入り娘の手を離れた時、彼は介護人の隣で今までの苦労を思い出してのことか涙を流します。我々もアンソニーと同じように意味の分からない状況をスクリーンを通して体験しているのでこの終盤のシーンはぐっとくるものがあります。原題が「The Father」に対し終盤でBabyとまるで子どもを扱っているかのよう(慰めるときの基本のフレーズ?なのかもしれませんが)、だけれどもアンソニーが中盤とは違い怒っていない様子をみると、そんなことも認識できないくらい今まで相当無理をして自身を誇張して当たり前の日常を過ごしている「ように見せる」ために頑張っていたかということがわかるかと思います。
時間の経過とともに、感情曲線が下がりに下がっていく展開でしたが、最後は「葉っぱはすべて落ちてしまった」を否定するように見せられたラストショットの木々と多くの葉、将来ではなく今を生きることを促す介護人によってアンソニーは救いを得ました。
日本は高齢化社会。地方の田舎だけでなく都市部でも高齢の方を見ることが多々あるかと思います。また、現代では孤独死の問題も社会の問題として浮上しています(実際に宮城でも震災復興住宅で数十名の遺体が死後かなり立ってから発見されたということがあったそうです)。これは理想が高すぎるのかもしれませんが、高齢ではない方は、もし高齢の方が自分の非を認めなかったり、何度も同じことを聞いてきたりと本作のアンソニーのようなふるまいをされたときに、同じ人間で完璧ではないので少しイラっとしてしまうのはしょうがないですが、完全に拒絶したりはせずに相手の心を少しでも理解し、優しく振舞ってあげられるような優しい世の中になればいいですね。
家族においては、家族の「父」「娘」というような区別を超えて、いい意味で友達のようにフラットに過ごせることが実現できれば皆幸せなのかなと思いました。
自分の親が高齢になったとき、成長した子の方からこんな言葉をかけられるようになれば本当の弱さを打ち明け、たとえ辛い日々を送っていたとしても救われるのかもしれません。
「無理しなくてもいいんだよ」と。
以上、ファーザーの感想でした~