舶載三角縁神獣鏡の同笵関係とその伝播について

古代九州~朝鮮半島の経済圏(物流圏)と邪馬台国~古墳時代の銅鏡の関係の補足ノート

 上記ノートでは、破鏡副葬を中心にその伝播の様子を纏めたが、次に舶載三角縁神獣鏡の伝播の様子を、この方の動画解説を使わせて頂き、ヤマト王権の銅鏡利用に引き継がれるまでを纏めてみたい。

舶載三角縁神獣鏡の同笵関係・出土古墳と時期

(4:00頃~) 那珂八幡ー備前車塚ー富雄丸山出土漢鏡含め、豊前石塚山古墳7面、備前車塚古墳11面、万年山古墳6面(全て舶載鏡)の同笵鏡が、どの年代の古墳から出土しているかを辿ったもの。

 このデータを全て検証する気力は無いが、石野 博信「三角縁神獣鏡・邪馬台国・倭国」に書かれている「三角縁神獣鏡が発見されている古い段階の古墳」とも大きな齟齬はなさそうだし、辻田淳一郎「鏡の古代史」を読んでも、三角縁神獣鏡の同笵関係については一部しか出てこなかったものの、特に違和感は感じないので、とりあえず適切なデータだろうと思う。

三角縁神獣鏡が発見されている古い段階の古墳

 このデータを素直に解釈すれば、舶載三角縁神獣鏡は、3世紀以降東方に運ばれ、順次古墳に副葬されたということだ。
 又、豊前石塚山古墳、備前車塚古墳や淀川中流の万年山古墳のように複数面をストックしていたクニがありそうなのも興味深い。
 上記、古代九州~朝鮮半島の経済圏(物流圏)と邪馬台国~古墳時代の銅鏡の関係に書いたように、3世紀中頃のホケノ山古墳への画文帯求心式四神神獣鏡の破砕副葬は、この動きに先行しているように見える。
 つまり、畿内への銅鏡の流入と墓制(あるいは埋葬祭祀)への利用は、3世紀に北九州の東部地域(玄界灘沿岸地域と多少文化が違う地域)から、伝播した破鏡をきっかけに、畿内を含む瀬戸内地域に広まったように見える。

 前出の辻田淳一郎「鏡の古代史」掲載の破鏡副葬分布に、上記の舶載三角縁神獣鏡の同笵鏡出土古墳のうち、九州の古墳と、本州の複数面出土古墳を重ねてみた。

破鏡と三角縁神獣鏡副葬(一部)分布

 万年山古墳は時期的にも少し毛色が違うように感じるが、北九州の玄界灘周辺ー宇佐地域ー吉備ー畿内(万年山古墳)への流れが浮かび上がる気がしないだろうか?銅鏡が九州から西日本に伝播したとして、その対価は何だったのかは気になるが。
 自分は万年山古墳への舶載三角縁神獣鏡副葬時代は、既に仿製三角縁神獣鏡が作られ始めた時期だと思っている。詳しくは調べてないが、淀川流域では近江まで含め、銅製品の製造が行われた地域ではなかったか?
 九州のこれらの古墳は、藤崎6号墳(方形周溝墓)以外は、全て前方後円墳(纏向型(原口古墳)を含む)のようだ。

 ヤマト王権の鏡の利用について、多少想像を交え、以上も統合して纏めてみると、次のようになると思っている。

 この理解は、辻田淳一郎「鏡の古代史」の内容と特に矛盾するものではないと思うが、どうだろう。


関連ノート

体の概要と全体の構成は下記ノートに纏めた(#MOC241116)

縄文~古墳時代の理解(邪馬台国の位置論を意識して)

 卑弥呼・邪馬台国の九州説・畿内説の比較と自分なりの理解は、3つのノートに纏めた(#ノート241116)
卑弥呼・邪馬台国 九州説・畿内説
  ・魏志倭人伝の解釈について (このノート)
  
・九州説について (リンク)
  
・畿内説の根拠について (リンク)

 上記の前提や背景になる理解・根拠をいくつかのメモに纏めてあるが、気が向いたらこれからも少しずつ増やしていくかもしれない
(#メモ241116) 

#メモ241116

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