クソみたいな世の中でクソみたいに生きていく
お食事中の人、ごめんなさい(笑)
数年前、わかりにくい小さな心の傷を負った。
わかりにくいというのは、例えば、自分の場合、「男にだまされた」「身内が死んだ」「出版直前で版元が倒産した」とかだと非常にわかりやすい。
そういうことで傷ついたと話せば、とても簡単に周囲に伝わると思う。
だが、そういうわかりやすいことではなく、自分でも「人間ってこんなことで傷つくんだ」みたいなことで小さな傷を負ってしまった。
でも、よく考えたら心の傷とは説明がつかないもののほうが多いのかもしれない。
で、そのあと、コロナで人と会話する時間が減ったせいか、いやコロナで助かったか(あまり人と会いたくなかった時期もある)その辺はよくわからないけど、最終的に、「この世の中で真面目に生きていたら生きていたら寿命の前に死ぬな、殺される」という結論にいたった。
もっと掘り下げると、「このクソみたいな世の中で生きていこうとするってある程度はこのクソみたいな世の中にあわせるってことで、結局、このクソみたいな世の中にあわせるってことは自分で自分をクソにしていくと同じじゃねえか」と行きついた。
で、またもやそのあと、どうなったかというと、自暴自棄になることもなく、自分でも意外なぐらい普通に暮らしていた。
自分は40代けど、周囲の人はみな口に出さないだけで、小さな傷どころかもっとでかい傷を負っていたり、世の中にウリウリされていたり、ボロボロなのに普通に笑っていたりもする。
だいたい、他の人たちはこのクソみたいな世の中との折り合いを20代とか30代でつけていて、自分はちょっとおそかったねー。
まあ、世の中にもそれにあわせている自分にも絶望したけど、絶望しながら生活するのって普通じゃね?みたいな感覚で時は流れて行った。
だが、そんな感覚で生きていたらある日突然「○○になりたい」と願うようになりだした。
○○とは身長10センチでもなければ芸人でもない(この2つはよく口にしている)
そして、なにかを願っているうちに物語ができあがるのが毎度の自分のパターンで、これがクソみたいな世の中に唯一抗う方法なのか、迎合してますますクソになってるのかはまったくわからない。
さて……。
もし自分が「クソみたいな世の中にあわせて自分もクソになっていくんだ」という考えを中学生のころに抱いたらどうなっただろう。
周囲はみなキラキラ輝いているだろう(実際はそうでなくてもそう見えてしまう)
どこに問いかければいいのかもわからない。
人間の行動というのは見たもの聞いたものでほぼ決まる。
尾崎豊の歌に影響され、盗んだバイクで走ったかもしれない。
ドラマの世界をまにうけ、シンナーをすったのかもしれない。
燃えろペンを読んで漫画を描いたのかもしれない。
友だちから「世の中なんてクソなんだよ。だからさ、授業中にスカートめくって先生にパンツみせるしかないんだよ」と吹き込まれたらやっていたかもしれない。
幼少のころから「世の中と折り合いがつかない人が刃物をふりまわす」ニュースばかり聞いていたら、それも一つの方法なんだとあたりまえのように同じことをしたのかもしれない。
クソみたいな世の中でクソみたいに生きていくってのは実はとても怖い。
マンションの20階のベランダの柵の上で歩くぐらい怖い。
落ちても落ちなくても怖い。
しかも、この怖さは人に話せない場合が多い。
人に話せば「ばかじゃないの」と笑われてしまう可能性があるからだ。
それが恐怖に深みを増す。
この恐怖と戦う武器を社会は10代の人にあたえない。
中二病は一つの武器だが、みんながみんな眼帯をすればどうにかなるわけでもない。
だから武器を自分でつかむしかないが、それはそれでハードルが高すぎるよ。
わたしとだれかの武器になる本になりますように。