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なにも心配ないからね
会社を休んで、もう三月(みつき)になるか。
毎日鬼のように鳴る電話やメールの嵐はここ最近収まってきたように思う。
どうして逃げてしまったのか、頭を抱えては怯え震えていた日々も今は少し、落ち着いてきて穏やかな日常を過ごしている。
誰にも必要とされない、如何して生きているのか見失いかけていた時、ほんの一時の居場所を求めて通いつめていた彼女の棲むこの場所は今や僕の生活の一部だ。全てを投げ出したあの日、自分の家に帰ることを辞めた。
「どこにも行きたくないならずっとここに居たらいい」
仄暗い部屋でそんな甘言に誘われたその日から。
彼女は「好きなように過ごしたらいい」と言う。
同じ空間にいるのに自分は気にせず過ごすといい、と言う。その代わり彼女も好きに過ごしていた。
最初の1週間、僕は彼女の歌う声に耳を傾けた。彼女の紡ぐ言葉と音に身を委ねた。その間の僕は本を読んだり、映画を見たり、ただ横になって微睡みの中にいたり。
携帯が震えるたびに体を震わせる僕の隣に彼女はただ居てくれた。
「あなたが必要だよ。それだけで生きていられるよ。」
そのうち、ぽつり、ぽつりと彼女の歌に合わせて歌うようになった。僕が歌いだしても彼女は構わず自分の音をやめなかったけれど、少し微笑んだような気がした。聴き入ってはたまに手拍子なんか入れたりした。
彼女が話しかける声がする。返事をしてもしなくても、彼女はいつも彼女の機嫌で話し続けた。気まぐれに話しかけたり気まぐれに返事をしては日々が流れていった。そんな生活が刻一刻過ぎていた。
ある時は、丁寧に彼女の髪を梳かし、髪を乾かした。時には着る服も選んだ。ある時は二人分の食事を作った。ある時は日が昇るまでテレビゲームをした。ある時は、ある時は.…。
たまには外に出ないか?ある日ふと思い立ってそう言ってみる。ところが彼女は哀しい顔をした。そう。と一言。「あなたがそうしたいなら。」
けれど、彼女は動かない。「あなたひとりで行くいい。」自分はここから出ないから。と。それならば意味がない。外に行くのはやめよう。そう伝えると、少しまた彼女が微笑んだ気がした。
彼女の住処はいつだって閉め切られていて、いつでも仄暗かった。カーテンの隙間から差し込む光だけが時間を表していた。それでよかった。何も考えない真綿で首を絞めるような楽園。
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「先輩!やっと見つけた…こんな所にいたんですか。」
「連絡もつかない…家を訪ねても帰ってきてないって聞いて…。」
「こんなに痩せて、隈も酷くて…何してるんですか。」
「先輩、誰と…話してるんですか…?」
その部屋には綺麗に手入れされた小さなテディベアが大切そうに置かれているだけだった。