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6月4日「生と死の境」

生と死の境ってなんだろう?

それがわからなくなってすごく苦しかった時期がある。
父の死にまつわる全てがきっかけとなって、長い間それについて考えていた。

それまでは死ぬことも生きることについても、何の疑問を抱くこともなく生きていたと思う。
自分の幼少期や学生時代の経験について何気なく話したりすると、それなりに驚かれることはある。でも、それでも自分の中ではそれらはさほどの波ではなかった。
わたしは今でいう発達障害というものらしいので、周囲の「普通」とかの感覚とズレてるのだろう。別段困っていないし、自分で分かっているから問題ないのだが。

そういう経験よりも、「父親の死」ということの方がはるかに衝撃が大きくて自分にとっては天地がひっくり返った出来事であった。
ほんとうに全ての感覚や考え方、世界の見え方が一変したのだ。

父が生きていた頃の自分は何世代も前の自分のように感じられて、なんだかぼんやりしている。なんにも真実なんて知らなくて、怖いものなんて存在しない、世界は当たり前で満ちている、そう思っていた。
そんな風にただただ子どもでいられた生活ができていたことに、今はすごく感謝している。戻りたいとはこれっぽっちも思わないけれども。

父の心臓が止まるその時まで、確かにそこには生きている「人間」がいた。
たとえ話すことも目を開けることがなくとも、魂は抜けかけていたのかもしれなくても、まだ少し体温のある「人間」ではあった。
心臓の鼓動がなくなり、少し経つとそこにはもう父はいなかった。
間違いなく父であり、一生懸命に生きた身体があった。
でも明らかに違うものに感じられた。はっきり言うならば、それは「容れもの」に感じた。
そこで初めて、人間の身体というのは単に器みたいなものなんだな、と実感した。遺体を間近で見るのが初めてというわけでもないのに、この時初めて生々しく実感したのだ。

その体験は大きかった。
死は死でしかない。それ以上でもそれ以下でもなかった。
酷く悲しくて、どうすることもできなかったことへの後悔や怒りに呑み込まれている自分と、ものすごく冷静に死を感じている自分がいて気が狂いそうだった。

それを境に、だんだんと死と生との境界線がわからなくなっていった。
なんで自分はいま生きている、と言い切れるのか?
死とはすぐそこにあるもので、むしろ死といわれる状態こそ「普通」なんじゃないか?

自分が生きているということが不思議で不思議で仕方なかったのだ。
なんでみんな、こんな不思議なことを考えずにいられるんだろう?
とずっとずっと悶々としていた。
カウンセリングを受けたこともあったが、自分にはまったくもって意味がなかった。私が知りたかったことは生と死についてであって、それを話し合える相手が欲しかっただけだったから。

そんな風に一人で考え込んでいたら、この世界には自分しかいように感じられて、ものすごい孤独感に襲われるようになった。
でもそこから抜け出せたのは吉本ばななさんの本のお陰だ。
もともと大好きで中学生の頃から読んでいたけれど、この時初めて本の言葉に救われる、という経験をしたのだった。
書かれてあった内容が、まるで自分のことのようでものすごく安心したのを覚えている。

この世界で誰も分かり合える人がいないかもしれないと絶望していたけれど、これを書いてくれた人がいる。少なくともこの人は私が言いたかったことを知っている人だ。

そう思えて号泣した。久しぶりにしっかり泣くことが出来た瞬間だった。
ずっと生きていてはいけないと世界から言われている気がしてたけど、この言葉たちから「生きててもいいんだ」と存在を許されたように思えたのだ。

そうしたら生と死の境について考えることがなくなっていった。
境を決めることには意味はない。
ただ単に肉体があるかどうかというだけなんだ、とあっさりと認知した。

生きるということも、考えすぎちゃうからこんがらがって自分で難しくしちゃってるだけなんだよな。
考えるというのは、これまで生きてきたことの経験があるからこそする行為だ。
時にはそれはものすごく役にたってくれるし、必要なことでもある。
でももうその時期はそろそろ終わりにしていきたいな、と。
ここからは余分に背負ってきてしまっているものを少しずつ落としていきたい。

死ぬことと同じように軽く生きていきたいと思う。

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