雪積もる街、過ぎぬ蒙昧
僕の住む街にも、雪が積もった。
ここは太平洋側の土地であるから、大雪が降るなんてことは滅多にない。故に、街の積雪に対する脆弱性はもはや議論の余地がない。公共交通機関は例外なく遅延し、僕も予定よりいささか遅れて最寄り駅に帰り着いた。
ホームタウンは既に人影少なく、暗く、しかし白かった。夕方まで降っていた雪は止み、降り積もった雪は踏み固められて透明に変わっていた。
慎重に、慎重に一歩を踏み出し、溜息を吐く。
「雪ってのは、面倒くさいもんだなあ」
子どもは無知蒙昧である。世の中の善いことも、悪いことも、まだ十分には知っていない。だから、雪が降ると面倒くさいということをまだ知らない。やれ雪だるま、やれ雪合戦、やれそり滑りと、楽しいことがいっぱいである。その親が雪でびちゃびちゃになった服だの靴だの手袋などを、面倒くさくも干してくれているとはつゆとも思い及ばない。やはり無知蒙昧である。
僕はもうオトナである。だから、雪の面倒くささを知っている。公共交通機関は遅延し、仕事にも影響がある。車の運転も危険を伴う。積雪で渋滞が発生し、立ち往生なんてこともある。雪は重く、家を押しつぶすこともある。寒い。靴下が濡れて不快だ。
雪なんて、面倒くさいものである。
面倒くさいのに。
暗く、白く、そして静かな街を、音をたてぬように歩きながら、しかし確かに、僕は街の昂ぶりを感じていた。
それは、スマートフォンを顔の前に掲げるサラリーマンの姿に、
それは、住宅の塀の上にポツンとたたずむ小さな雪だるまに、
それは、白い世界に何か物語はないかと捜し歩く自分自身に、
確かに懐かしい気持ちの高揚を感じるのである。
僕はまだ、無知蒙昧なのだろうか。
否。僕は雪の面倒くささを知っている。
だが一方で、雪のもたらす非日常も、そしてそれが楽しいものであることも、僕は知っているのである。雪の面倒くささを知るずっと前から。
どちらも知っているから、どっちつかずなのだ。
雪の面倒くささを嘆きながら、どこか胸が躍る。あの頃の純粋無垢な喜びを感じることはもうないのだろうが、確かに無知蒙昧の僕は心の中に生きている。
過ぎぬ蒙昧を懐古し、雪積もる街を闊歩する。闊歩というほど勇ましいものではない。しりもちをつかぬように、恐る恐るの闊歩。
ひとつ、物語を見つけた。
凍った路面に横たわる、銀色の棒。
近づいて見れば、それは自転車の一部であると解った。自転車を自立させるのに用いる、あの部品である。
滑って転倒したに違いない。
転んだのはどんな人であっただろう。
転んだのは、学校帰りの学生だろうか。ならば彼は俊敏である。ひらりと舞い降り、傷を負ったのは自転車だけであったろう。まあ、帰ってから自転車が自立しないことに気付くのだろうけれど。
転んだのは、買い物帰りのご婦人であろうか。ならば一大事。買ってきた諸々は道路に散乱し、慌てて拾い集めたに違いない。ん。ならば自転車の部品にも気づいたはず。このシナリオは無しである。
ともあれ、転んだ当人の無事と、かの自転車が再び自立する日が来ることを願うばかりである。