見出し画像

規則vs多様性なのだよ

身だしなみの話

皆さんご存じの通り、僕は今スケジュール真っ白マンである。であるから、髭を蓄えてみたりしている。

剃らずに伸ばしておくことによりジェイソン・ステイサムみたいな渋いオッサンになる予定だったのだが、一週間各自勝手気ままに成長した毛たちは全く方向性が揃わず、見てくれは完全に無精髭のオヤジになってしまった。

この危機に立ち上がったのは毛根ではなく鉄の刃。髭剃りの刃が鉄なのかは知らんが、ともあれ勝手気ままなお髭さんを整えることにしたのだ。

さて、僕の髭がどうなったかはさておき、僕は何故、スケジュール真っ白マンにならなければ髭を蓄えられないのか。についてが今日のポイント。

これが何故かというと、僕の職場の服務規程にそう書いてあるからである。髭剃れよーって。

服務規程に身だしなみについて記されているのは、企業イメージの維持ないし向上が目的であると考えられる。学校の校則なんかで頭髪やら制服の着こなしやらに制限があるのもそう。

で、服務規程やら校則やらに対して必ずといっていいほど叫ばれるのが「多様性」という言葉。個人がどのような格好をしようが、法に触れなければ問題ない。多様性の時代に身だしなみを拘束するなど許されない。という主張だ。

では、僕がどちらの肩を持つのかというと、ズルいかもしれないが、どちらも。である。永世中立なのだよ。

僕は、身だしなみとは、一言で表すならば「自己表現」だと思っている。要するに、自分がどんな人間なのかを周りに示す役割を果たしているということ。

俺は、私は、こういう格好が好きなんだ。とか、流行の最先端だぜ!とかってのは各個人が意識して表現する自己だけれど、無意識に表象される面もある。例えば日に焼けて真っ黒だったら、アウトドアな趣味を持ってるのかな。とか、シワひとつないシャツを着てたりしたら、几帳面な人なんだろうな。とか。

身だしなみは自己表現。意識的にせよ無意識にせよ、その人の性格や趣味嗜好ってのが、他人に見える形で表れる。見た人が正しく読み取るかは別として、であるが。

では、企業や学校から見た身だしなみによる自己表現とは何か。

容姿がその人の性格や趣味嗜好を表すならば、企業や学校などの組織においてもそれは同じである。その組織に属する人物がどんな格好をしているか、というのは、そのまんまその組織のイメージとなる。そしてこのイメージというのが、組織にとっての生命線だったりする。

例えば、先述したような無精髭オヤジの僕と、しっかり髭を剃ってツルツルお肌の僕が並んで、清潔感をより感じるのはどちらかと問えば、そりゃツルツル僕のほうだろう。

では、寝癖のままの僕と、しっかり髪を整えた僕だったら、生徒はどっちの僕のほうが頭が良さそうだと感じるだろうか。

校則にしても同じ。制服をビシッと着た黒髪短髪の生徒と、制服を着崩して金髪トンガリ頭の生徒がいたら、どちらが真面目に勉学に励んでいそうに見えるだろうか。

ここで僕はわざと、物議を醸すような例を2つ挙げた。無精髭と清潔感はまだ関連があるとしても、寝癖の有無は頭の良さに関係ないし、制服の着こなしも頭髪も、勉学となんの関係もないではないか。

でも思い返してみていただきたい。僕はこの2つの問いで、答えを明記していない。にもかかわらず今これを読んだあなたが僕の想定した答えを予測できたとしたら、、それが、企業や学校が実際にはなんの脈絡もない規則を作る理由だ。

外見から判断されるイメージが誤ったものであっても、社会において一定数以上の人がそのイメージを持ってしまえば、組織はそれを無視できない。

例えば世の中の6割くらいの人が、「半袖短パン=嫌なヤツ」ってイメージを持ってたとしたら、絶対に関係ないだろ。と思っていても、いいヤツだと思われたいなら半袖短パンで暮らすことは避けるだろう。

組織も同じで、社会から嫌われたくないから、「半袖短パン禁止!」というわけわからん規則を作るのだ。

このように会社も学校も、社会の持つイメージに合わせて身だしなみの規則を作る。そのイメージの正当性はさして大事ではない。大事なのは、社会においてどの程度の人がそのイメージを持っているかである。

ここで鋭い人はこう突っ込むだろう。「いや待て。騙されないぞ。俺が答えを予測できたのは、自分がそういう校則の元で育ったからだ。社会の誤ったイメージを作り出したのは校則やら規則やらの方じゃないか!」と。その指摘は大正解。

要するにこれは、「鶏が先か、卵が先か」なのだ。
誤ったイメージを作り出したのが、世論なのか組織の規則なのか、今となってはあやふやである。

どっちが先かはあやふやだけど、人々は「いろんな企業や学校の規則で禁止されてるから半袖短パンは悪いヤツだ!」となるし、企業や学校は「みんなが半袖短パンが悪いヤツだと思ってるから半袖短パン禁止!」となる。ぐるぐる無限ループ。

人間を見た目で判断してはいけない。というのも正しい。無精髭で寝癖のままでも、凄くがんばって仕事をして優しい心を持っている人はたくさんいるだろう。

でも、身だしなみが自己表現である限り、よく知らない人物を外見で判断するのは至極全うなことで、それを利用してイメージ戦略を練るのも当然。というかやらなきゃ組織は生き残れないのだ。

さて、すこし右往左往したが、身だしなみの規則を作る理由はこんなものだろうと考えられる。組織に属するのであれば、その構成員たる人物は自身の身だしなみをもって組織のイメージを確立する必要がある。組織によって個人の身だしなみに制限が与えられるのは、よく考えれば理にかなっている。

組織の行動は理にかなっているが、それに対して多様性の受容を求めるのもまた、道理にかなっている。

そりゃそうだ。同じ人間なんていないのだ。自分らしく生きることの何が悪いか。自分のしたい髪型で、したい服装で生きたいと願うのは当たり前だもの。

結局、お互いの妥協点を探り合っているのが現状なんだと思う。ブラック校則なんていうのは、組織側の要求が行き過ぎた結果だろうし、逆に自由すぎる校風が学級崩壊を招くこともある。どこまで個人の自由を制限し、どこまで組織からの制限を許すのか。このせめぎあいは様々なところで行われてる。

少なくとも今僕は、かなり自由に自己表現ができる環境にいる。このブログだって自由な自己表現のひとつだ。とてもありがたいことである。

加えて、幸運にも僕は髭を蓄えてもステイサムにはなれないみたいだ。すなわち職場に復帰してもなんのストレスもなく髭とさよならできる。

うむ。今のところ、僕と会社の妥協点はかなりいい感じである。

いいなと思ったら応援しよう!