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僕はどんな肩書を持とうとも、未完成でハナタレな人間である。

今日は1321日目らしい。

僕が塾講師として採用された日からである。約1300日間にわたり、僕は「先生」を名乗った。

そして今日、講師として最後の授業を終え、僕は晴れて「先生」という肩書を肩から振り払った。

振り返れば、実に意義深い経験だったように思われる。

僕は教員にはならないから、今後の人生で「先生」になることはないように思われる。この1300日は僕の人生で唯一の「先生」としての生活かもしれない。

そんなわけで今回は、「先生」になってみて考えたことをひとつ、書いてみることにするよ。もしかしたら続編が出るかもしれないよ。僕のやる気次第。


まずもって思うのは、肩書というもののチカラは凄いということである。

僕は1300日間「先生」だったわけだが、僕を「先生」たらしめるものは何か、というものを常に問うていたような気がする。

結論から言えば、肩書それひとつが僕を「先生」にしていたのだと、そう思うのである。

当然のように生徒・保護者は僕を「先生」と呼ぶが、僕は「先生」と呼ぶに値する人であろうか。というようなことを、講師になって最初の1年間程は特に強く感じていた。

僕は大学受験を控えた高校3年生に勉強を教えているが、つい数ヶ月前までは、自分が受験生だったのである。彼と僕の間にあるハッキリとした境界線は、受験を終えたか否か、それだけであったはずである。たったそれだけのはずなのに、彼は生徒で、僕は先生だった。そこには大きな隔たりのようなものを感じずにはいられない。

浪人生に授業をするときには、そのことがより鮮明に意識された。彼は僕と同じ年に受験を経験した。同じ経験である。でも彼は生徒で、僕は先生である。

または、僕なんかよりもずっと勉強ができるのに、相談するためだけに通塾するような生徒もいた。教えられることなどなくても、彼は生徒で、僕は先生だった。

保護者との面談でも、その違和感は増幅していった。僕なんかよりも何年も長く生き、文字通り先を生きてきた大人が、齢20にも満たぬハナタレ小僧を「先生」なんて呼ぶのだ。

そこで僕は悟った。「僕を「先生」たらしめるものは、「先生」という肩書それだけである。」とね。僕が経験豊富だからではなく、僕が勉強ができるからではなく、僕が年上だからでもなく、僕が先生だから、先生なのである。

この悟りは僕の「先生」としての立ち居振る舞いを決定づけたかもしれない。とにかく僕は「先生」という肩書にあぐらをかかぬよう用心してきた。つもりである。

つもりではあるが、やはり、肩書のチカラは凄いのである。

折節で、「あっ」と思うことがある。ついつい「我が先生であるから、我が正しいのだ」という錯覚にとらわれる。

例えば生徒が宿題をやってこなかったとき。僕は彼に「宿題ちゃんとやってきなさい」と言う。言ってしまった後に、肩書にあぐらをかいてしまったと自覚する。

自分が先生であることを良いことに、思考を怠っているのである。

生徒が宿題をやってこなかったのは本当に生徒のせいなのか。出題の仕方や範囲、量などに問題があったのではないか。そんなことに思い至る前に、「宿題ちゃんとやってきなさい」なんて抜かすのである。大あぐらもいいとこである。ハナタレである。

肩書のチカラは凄い。人をいとも簡単に思考停止させる。

思えばそんな「先生」や「リーダー」を、今までごまんと見てきた。

肩書のチカラは凄い。思考を止めるな。僕はどんな肩書を持とうとも、未完成でハナタレな人間である。

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