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歴史・人物伝~エピソード編⑨:山内一豊「命懸けの立身出世」

土佐藩(高知県)の初代藩主となった山内一豊は、掛川(静岡県)の小大名として関ケ原の合戦では徳川家康に従軍し、戦勝の論功行賞として土佐24万石の大名に出世しました。立身出世の代表格の一人といえますが、決して良いことばかりではありません。

一豊が評価されたのは合戦での戦いそのものではなく、妻の千代から届いた密書を家康に差し出し、石田三成ら大坂方の情報提供をしたことが決め手となったのです。千代は「山内一豊の妻」と称され、内助の功を象徴する賢妻の模範と言われるようになりました。

こうして一豊は、今までの4倍近い石高を持つ大名に出世するのですが、支配地の土佐は一筋縄ではいかない土地でした。関ケ原以前に土佐を支配していた長宗我部盛親は三成方につき、お家騒動も起こしたため改易されてしまいました。一豊は「占領軍」として乗り込んだ形になったのです。

長宗我部家に仕えてきた家来がそのまま残っており、山内家に反抗する動きもありました。領内の騒乱を抑え込めねば、自分が改易の憂き目に遭ってしまうため、一豊は抵抗勢力を徹底的に弾圧します。その結果、大きな騒乱を起こさずに、領内統治のスタートを切れたのです。

一豊には、領内の視察時に影武者を5人も連れて行ったというエピソードがあり、新天地での支配に苦労したことがうかがえます。「吸収合併した子会社の社長に、親会社の中間管理職が送り込まれた」というイメージでしょうが、一豊にとっては命懸けの立身出世だったのかもしれません。


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マイケルオズ@日々挑戦する還暦兄さん(フリーランスライター)
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