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歴史・人物伝~若き信長編⑥「大うつけ」の器量を見抜いた道三
帰蝶(濃姫)の父・斎藤道三が、婿の信長に「対面したい」と求めてきたのに応じ、両者は1553年に美濃と尾張の境にある正徳寺で初めて顔を合わせることになりました。
「大うつけ」の姿のままで・・・
父の信秀が亡くなり、若き後継者となった信長でしたが、信秀の葬儀での行状が道三の耳にも入っていたのでしょう。道三は、信長が本当の「大うつけ」かどうか、自分の目で見極めるつもりだったのです。
信長の姿を見ておきたいと思った道三は、先回りして町はずれの小屋に隠れて、やって来る信長の行列を確かめました。「信長公記」にも書かれているエピソードですが、道三が本当に覗き見したのかは不明です。
その時の信長は「大うつけ」と呼ばれるままのいでたちでしたが、信長にすれば「これが俺の普段着だ」と言わんばかりでしょう。その姿を初めて見て唖然とする道三が目に浮かんできます。
しかし、道三をもっと驚かせたのが、「三間半(約6・4メートル)の槍を持った槍衆500、鉄砲隊500」というお供たちでした。信長がただ者ではないと、この時点で道三は見抜いたのかもしれません。
対面の座に現れた信長
正徳寺の対面の座には、道三の家臣たちが正装をしてずらりと居並んでいました。道三は「大うつけ」の姿でやって来る信長に恥をかかせ、笑ってやろうと目論んでいたのです。
ところが信長は、先ほどの姿とは打って変わり、居住まいを正して現れました。さらに家臣たちには一瞥(いちべつ)もくれず、後から現れた道三に対しても自分から挨拶をしなかったほどです。
道三と信長がどんな会話を交わしたかは分かりませんが、対面は無事に終了し、道三は居城へと引き上げていきました。その途中、家臣が「信長は大うつけ(阿呆)でしたね」と言ったのに対し、道三はこう答えました。
「だから無念だ。この道三の息子どもが、必ずあの阿呆の門前に馬をつなぐことになるだろう」※地図と読む現代語訳信長公記
信長の器量が、嫡男である斎藤義龍ら自分の子供とは比較にならないと、道三は認めざるを得なかったのです。同時に、同盟関係が解消された時、美濃が信長の属国になると予言したのかもしれません。
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