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土曜雑感 vol.190~本日のテーマは「横綱照ノ富士引退」です
大相撲の横綱照ノ富士が引退を発表し、年寄照ノ富士を襲名しました。一人横綱として角界の屋台骨を支えてきてくれた照ノ富士に「お疲れさまでした」と心から労いの言葉をかけさせていただきます。
角界最高峰である横綱は「心技体」すべてを兼ね備えていなければ務まらない地位です。歴代の横綱のなかでも、照ノ富士は際立って「心」の部分の強い横綱だったなと思います。
照ノ富士が入門した間垣部屋は、元横綱の二代目若乃花が師匠でしたが、病気の後遺症で指導らしい指導ができず、大器だった照ノ富士(当時のしこ名は若三勝)は未完のまま、終わってしまうところでした。
間垣部屋が閉じられて伊勢ケ浜部屋に移籍すると、当時横綱だった日馬富士や安美錦といった稽古相手に恵まれ、師匠の伊勢ケ浜親方の厳しい指導もあって、一気に花を咲かせました。
大関に昇進したものの、当時は「体」ばかりで相撲を取っていた印象が強く、やがて膝のけがにつながってしまいます。さらに、稽古が思うようにできなくなったことで糖尿病まで併発してしまったのです。
大関から陥落して番付はどんどんと下がっていき、十両でも負け越してしまいます。当時私は「元大関として恥ずかしい成績しか残せないのなら、潔く引退すべき」と思っていました。
ただ、当時の私の認識があまりにも浅はかであったことが、後の照ノ富士の復活劇で露呈されます。休場続きで序二段にまで下がっても、照ノ富士は土俵に立ち続け、再起を図っていったからです。
その先の快進撃は多くの方がご承知のとおりで、元の番付である大関ばかりか、若い照ノ富士が目指せなかった横綱の地位までつかみました。大相撲史上でも唯一無二の存在になったわけです。
十両で負け越したり、休場が続いていたりした頃、照ノ富士自身も何度も辞めることを考えたようですが、伊勢ケ浜親方は再起を信じ、頑として引退を認めなかったといいます。
信念を決して曲げなかった親方によって、照ノ富士は現役続行という非常に厳しいイバラの道を進む決意をしました。このことが、照ノ富士の「心」を鍛え、磨き上げたのだと思います。
さらに照ノ富士には、おかみさん(伊勢ケ浜親方夫人)の励ましもあったでしょうし、兄弟子の安美錦(安治川親方)や付け人の駿馬、そして苦楽を共にした呼び出しの照矢の存在も大きかったのではないでしょうか。
横綱昇進後も、けがによって横綱としての相撲が取れず、休場と出場を繰り返すことになってしまいました。それでも、優勝回数10回を数える実績を残し、大関以下との力の差を見せつけてくれたのです。
勝っても決しておごることなく、堂々とした態度を貫いた横綱は、自らの姿を見せることで、相撲は「心」が最も大切だということを示していたと思います。この姿勢は歴代横綱のなかでも際立っていました。
年寄照ノ富士として新たなスタートを切るわけですが、おそらく伊勢ケ浜親方の定年後は、部屋を継ぐものと思われます。「自分に嘘をつかない力士を育てる」という言葉どおりの育成に励んでほしいと期待します。
改めまして照ノ富士関、おつかれさまでした。
※このコラムは、ブログ「気まぐれトーク」にも掲載いたします
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