歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」信玄死後の織田信長の動きは?
大河ドラマ「どうする家康」は、いよいよ来週、長篠の合戦のドラマへと進んでいくことになります。徳川家康が三方ヶ原合戦で大敗してから2年、ついに武田軍に一矢報いる時がやって来るのです。
大河ドラマは家康が主役なので、織田信長の動向にはほとんど触れていません。そのあたりを改めてチェックしてみたいと思います。
天正元年(1573)、信玄の死を察知した信長は素早く反転攻勢に出ます。まずは積年の敵であった朝倉氏の本拠地・一乗谷へと攻め込み、朝倉義景を討ち死にさせ、さらに浅井長政の居城・小谷城を落とします。
そして、反旗をひるがえした足利義昭を攻め、京都から追放することで足利幕府を滅亡させ、名実ともに実権を握ります。さらに、松永久秀の降伏など三好三人衆の勢力も鎮圧し、敵対勢力を次々に撃破していきます。
ただ、武田信玄は死没したものの、武田勝頼がしっかりと後を継ぎ、信玄が築き上げた戦国最強クラスの武田軍は健在でした。勝頼は、家康の領地である三河・遠江だけでなく、信長の領地の美濃方面でも軍事行動を起こしています。
天正2年(1574)には、武田勝頼が美濃の明知城に攻め寄せてくると、信長も軍勢を率いて出陣します。しかし、明知城落城の知らせを受け、信長は全面対決を避けて撤退するのです。
おそらく信長は「圧倒的な兵力差がない限り、武田軍と戦っても勝ち目はない」と思ったのでしょう。後顧の憂いをなくしてから武田軍に立ち向かうべく、先に長島一向一揆のせん滅作戦を実行しました。
そして天正3年(1575)、ついに絶好のチャンスがやって来ます。それが長篠の合戦だったのです。
長篠の合戦(設楽原の合戦)も、鳥居強右衛門の決死の救援要請や酒井忠次の鳶ヶ巣山攻防戦といった、さまざまなエピソードがあります。大河ドラマではどのように描かれるのでしょうか。楽しみですね。