善悪を決めるものー意識と無意識と言動ー

人には3つの善悪を決めるものがある。

意識と無意識と言動だ。
この内、他人から見てわかるものは言動のみ、意識は本人のみがわかっているもの。そして無意識は本人すらもわかっていないが心の奥底で望んでいることや感情だ。

さてそこで善悪の話だ。
この3つの順列組み合わせで善悪を考えてみよう。


1.意識=善 無意識=善 言動=善

この3つが揃っているものは、間違いなくだろう。聖者の言動はすべてこの3つ揃いから生じる善だと言われている。

2.意識=善 無意識=善 言動=悪

こうなってしまったものはどうだろうか?
本人が善をなしたいと思い。無意識も善を望んでいたが、表面に現れ他人から見える状態になったものが他にとっての悪となってしまった場合だ。
どこに言動が悪になってしまった原因があるのだろうか?

この場合、原因は意識、または無意識にある場合が多い。
本人が善だと信じているものが実は悪であった場合。
本人は善をなしたいと思っていたのだが、無意識が信じている善が実は悪であった場合に表面に現れる言動が他にとっての悪に変わる。
例えば古くからの迷信では良いこと・なすべきこととなっていたが、現在はそれはよくないことだとされていることなどの場合に起こりうることだ。
これは悪だろうか?
答えは単純明快だ。である。
時代の変化により、善と悪も変化する。
善悪の基準は普遍ではなく常に変化しているものだ。
その変化をUPデートできていないという過ちを犯しているからであり、結果的に他にとっての悪をなしてしまっているからだ。
悪いことだと知らずにやってしまった。悪意なくやった言動が他を害する悪であった場合がこれに該当する。

次のパターンを考えよう。

3.意識=善 無意識=悪 言動=善

本人は善をなしたいと思っていたが、無意識下では悪を望んでいた。しかし言動は善となり他を喜ばす結果となった場合。
幸運な偶然ということもあるだろう。だが無意識は本人さえも気づくことのない心の奥底の感情だ。
そこが多少腹黒くとも結果である言動が善になったのであれば、まぁ、ギリギリに含めてもいいのではないかと思う。
売名行為、時に偽善と呼ばれる派手な善行などにこれにあたるものが多い。

4.意識=善 無意識=悪 言動=悪

しかし、たとえ本人の意識が善をなそうと思っていたとしても、無意識が悪を望み、結果の言動も悪になってしまっては、それはと言わざるを得ない。
良かれと思ってやったことが他人に迷惑をかける行為だった場合などは、やはりそれは悪である。
往々にして、他人のためになることだからと自分の価値観だけで決めつけて行った言動というのはこれにあたる。
そこには「自分の価値観を他人に押し付けたい/他の価値観を認めようとしない」という無意識の排他の望みが潜んでいるからだ。
また、自他の境界線が曖昧な人もこのタイプの悪をなしやすい人と言える。
自他の境界線が曖昧ということは、自分と他人の価値観の区別がつけれない。自分と他人に違いがあると理解できないことだからだ。

5.意識=悪 無意識=善 言動=善

順列組み合わせだから、こういう場合もあるだろう。
悪意を持っていたが、無意識は善を望んでいて、言動も善になった場合。それは善と言えるだろうか?
これもまぁ、ギリギリに含めたいと私は思う。
悪の中には利己主義も含まれる。
自分を一番大事に考えることだ。それは生存本能として適切な考えだから、死ぬか生きるかの状況になった時、なんとしても自分の命を守ろうとする行為を責めることはできない。損得でもなく優越・選民思想でもなく、本当にギリギリの状態になった時、他よりも自分を優先させてしまったといった場合のことだ。
これは刑法でも緊急避難として罪を問われないことになっている。
ましてや、結果は善になったのだから責めることはできないだろう。

6.意識=悪 無意識=善 言動=悪

一方、同じように意識は悪意があったが、無意識が善を望んでいたとしても、結果の言動が悪になってしまった場合は、明らかに悪意があったものとしてと判定される。これに異論がある人はいないだろう。
無意識は何度も書くが、”本人さえも気づいていない心の奥の望み・感情”だ。
それがたとえ善を望んでいたとしても、本人が悪意を持って結果の言動も悪であればそれは悪となる。

7.意識=悪 無意識=悪 言動=善

これは非常に稀な例と言えよう。
悪意を持ち、無意識下でも悪を望んでいたにも関わらず、表面に現れた言動が善となった場合。
それは非常に稀な幸運の偶然が働いたか、もしくは本人が愚か過ぎたかのどちらかだ。
愚かすぎることは善悪の判断があやふやになりやすく、本人の無意識もまた善悪の望み・感情がはっきりしていないことがある。
ちょっと奇妙な雰囲気だったり利己的なところがあるにも関わらず、なぜか憎めない愛嬌のある人物を知っているという人も多いだろう。そういう人がなしやすいパターンはこれが多い。
一歩間違えば悪となる可能性を秘めている綱渡状態なのでこれに関しては、判定不可能としたい。

8.意識=悪 無意識=悪 言動=悪

最後のパターンは言わずと知れた3つ悪が揃ったパターンだ。
これもと判断するのに異論のある人はいないだろう。
本人に悪意があり、無意識も悪を望むのであれば、結果である言動も悪になるのは当然のこと。
凶悪犯の多くはこのパターンであり、悪いことだと承知の上で悪をなしていると言える。


こうして順列組み合わせを総当たりして考えてみると誰が見ても真っ当に「善」だと言えることは、意識、無意識、言動の3つが善となった場合のみで、他の2つは多少甘めな採点をしてもらって、なんとか「善」の末席にしがみつけたというところだ。

仏陀はその説法の中で「正しい善とは意識、無意識、言動の3つが善に揃うただ一つのみである(正確に言えば”身口意の全てが善であることのみが善”)」と説いているが、まぁそこまで厳しいことは望まない。
内心まで善であれと聖人のようなことは望まないから、せめて言動を善にするように努力することが人としての成長だろうと思う。

多くの人が内心はどうあれ、言動を善の範疇に収めることができるようになれば、世界は平和になり、戦争も差別もおそらくジェンダーによって苦しめられる人も減っていくに違いない。

そういう日が来ることを切に願う。


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Myinya
たまに飲みにいくのが楽しみな私です。 どうか一杯奢っていただけませんか? ついでにネタも拾ってきます。