置かれた場所で咲いてはならないヒトもいる
ある、有名な本の題名「置かれた場所で咲きなさい」。
全ての目の前にある現実はわたし次第である。
わたしはそうあるメンターから教わり、実施してきた。
そうやって5年を過ごしてみて何となくだが、多くの気付きが得られたことは確かだった。
挫折故に見えてくるものがあります。という趣旨が学びを教えてくれたと思う。
しかし、ここ最近「置かれた場所で咲きなさい」ということをまた別のメンターの方に話をしてみたら、2人の方に「変だ」「そんな必要はない」「植物ではなく、私たちは人間ある」「自分で行動を起こし、その行動の結果に責任をもつ」と、題名をお伝えすると違和感があるらしい。
真っ当な事を書いてある。
今ある程度歳を重ねた。若い頃は人生は整然としていることを望み、真っ当な人生を送ることはあたかも素晴らしいように感じていた。
「置かれた場所で咲きなさい」
本のチカラ、メンターのチカラは時として大きな影響力を持つ。
そして、本の内容はその人の状態によって中身の捉え方が異なることはよくあること。
先の題名の本を否定も肯定もしない。
ただ、今の私が思うのは、
「置かれた場所で咲いても良いし、さかなくても良い」
今いるヒトの置かれた立場による。
本の影響力は大きい。置かれた立場で咲けた人には受け入れられるし、咲けなかった人には自己否定につながるか、著者を否定する人になってしまうかもしれない。
私は「置かれた場所で咲きなさい」で成長もできたが失ったものも多かった気がする。最近お会いしたメンターの方々は行動する事を望み、置かれた場所にいるよりは、望ましい環境を見つける努力をする事だと教えてくれているようだ。
最終的には自分の人生は自分で決めなさい。行動しなさいということなのかもしれない。
行動できない人には「置かれた場所で咲きなさい」が合うし行動できる人には「置かれた場所で咲いてはならない」となるのかもしれない。
お読みいただいてありがとうございます。