「劊子手的下場」に関する考察――「あの日、大雨が降っていた。」
作者:百年非
2023年7月14日 初版
2024年7月1日 修正版
郭岐『陥都血涙録』(南京師範大学出版社、2005年7月発行、ISBN 7-81101-240-5)には、附録として劉方鉅(鉅の字は、同書の郭岐「自序」及び『黄埔軍校将帥録』の中で矩となっている。注記筆者。)「劊子手的下場」(殺人魔の結末)という文章が収録されている(同書172~187頁)。郭岐は「自序」の中で劉方鉅のことを「劉方矩将軍」と称しているが、実際には彼は陸軍少将である(注1)。
劉方矩は「劊子手的下場」の中で次のように書いている。図1参照。
抜粋和訳
谷寿夫に対する裁判が結審した。民国36年(1947年)4月26日正午12時45分、谷寿夫は縛られて処刑場――九年前、谷寿夫部隊によって攻略された雨花台――に連れて行かれた。あの日は大雨が降っていた。谷寿夫は、憲兵2人に監視されて、ぬかるみの中に跪き、雁字搦めに縛り上げられ、首の後ろに戦犯谷寿夫と書かれてある木製の札が立てられていた。南京市民は全員繰り出して、雨の中で見守っていた。執行者が谷寿夫の後頭部に銃を放ち、彼は一瞬にして命を絶たれた。雨に打たれてずぶぬれになった民衆は、轟音とも聞こえるような歓喜の声をあげた。ついに、中国人は南京大虐殺への報復を果たしたのである。
「劉方矩将軍」が書いた内容は果たして本当なのか、以下のように考察する。
考察一 「あの日は大雨が降っていた」について
以下の写真は筆者がインターネットで集めたものである。
ご覧の上記9枚の写真の通り、谷寿夫中将が処刑された1947年4月26日は、雨が降っていなかった。また、当時谷寿夫中将の死刑執行を伝える新聞記事にも、当日大雨が降っていたとの記述は一切見当たらない。
以下は1947年4月27日付け『新聞報』第二面の記事の抜粋和訳である。
「谷寿夫が判決書に署名した後、11時5分法廷から連れ出され、国防部の警備部隊によって屋根のないトラックに乗せられた。犯人谷寿夫は前座席に座り、車窓に手をかけ、珠江路、碑亭巷、大行宮、太平路、朱雀路、健康路、中華門を経由して、雨花台の処刑場に到着した。
道中、戦犯審判法廷によって印刷された罪状告示が配布され、道路の両側には観衆が群がっていた。中華門外の雨花台一帯では、人々が集まり、拍手や叫び声が鳴り響き、犯人谷寿夫の顔色は青ざめ、呆然としていた。
車から降りると、各新聞記者による写真撮影後、犯人谷寿夫は2人の憲兵に連れられて前へ進んだ。処刑執行人が前に進み、犯人谷寿夫の帽子を取り除き、刑務官の合図のもと、パンッと拳銃を一発撃った。弾丸は犯人谷寿夫の後頭部から入り、口から抜け出た。犯人谷寿夫は身を縮め、すぐに地面に仰向けに倒れて命を絶った。」
また、他の新聞でも、谷寿夫中将の死刑執行当日に大雨が降っていたとの記述は一切見当たらない。
上記新聞記事を読む限り、谷寿夫中将が受刑された日の1947年4月26日は、雨が全く降っていなかった。
故に、「劉方矩将軍」が述べる「あの日は大雨が降っていた」や、「雨に打たれてずぶぬれになっていた民衆」が「雨の中で見守っていた」という記述は全くの虚偽であることが分かる。
このように、「劉方矩将軍」は史実を歪曲し、谷寿夫中将を貶めるために、大胆にも天気情報まで捏造していたのである。
考察二 谷寿夫中将が「ぬかるみの中に跪いていた」について
図8、図13、図15に示す通り、銃殺刑に臨む谷寿夫中将は、両腕が憲兵に抑えられているものの、凛として立っていた姿が明らかである。
図5の左側に写っている背の高い憲兵張涛が回想録の中で次のように書いている。「谷寿夫が銃殺刑にされる際、彼ら(憲兵。注記筆者)に支えられて立っていた。彼を跪かせることはなかった。これは当時、戦犯に対する人道的な扱い方であった。」(http://www.hznews.com/xw/tbbd/200509030001.html)
しかしながら、「劉方矩将軍」は、谷寿夫中将の人格を貶めるために、卑劣な手段に訴えた。「劉方矩将軍」は、故意に谷寿夫中将が「ぬかるみの中に跪いていた」という話を捏造した。その捏造には、「劉方矩将軍」の陰謀的な意図が透けて見えるものであった。
「劉方矩将軍」は、あたかも谷寿夫中将が屈辱の中で跪いているかのようなイメージを広めることで、谷寿夫中将の尊厳を傷つけようとしたのである。しかし、図8、図13、図15に示す通り、その話は完全な虚偽であり、事実とは異なるものであった。
実際のところ、谷寿夫中将はそのような卑屈な姿勢を見せることなく、武人としての気概を示し、立派で凛とした態度を保っていた。冤罪の死に対して決しても怯むことなく、勇敢に立ち向かっていたのである。谷寿夫中将の高潔な人格は、「劉方矩将軍」の捏造によって貶められることはない。谷寿夫中将の雄々しい立ち姿は、多くの人々の目に焼き付いており、永遠に称えられるべきものである。
考察三 谷寿夫中将が「雁字搦めに縛り上げられ、首の後ろに戦犯谷寿夫と書かれてある木製の札が立てられていた」について
1.中国では、通常、死刑囚等の自由を奪うため、縄でその両手を背中に縛り上げることを「五花大綁」と言う。図17参照。
2.中国では、古くから死刑囚の名前が書かれた木の札を死刑囚の背中に立てる習わしがある。周朝から南北朝の時代には「明梏」と呼ばれ、その後、「斬條」、「亡命牌」、「犯由牌」などと呼ばれるようになった。図18参照。
図19は現代中国の死刑囚の写真であり、「五花大綁」(雁字搦め)された女性死刑囚の背中に「斬条」という札が立てられている。赤丸の中に「斬」の文字が見える。
しかし、図2、図5、図6、図7、図8に見られるように、谷寿夫中将は雁字搦めに縛り上げられていなかった。また、図5の左側の背の高い憲兵張涛が回想録の中で次のように書いている。「谷寿夫の階級が高すぎる。彼は人道的に扱われて、縛り上げられていなかった。」(http://www.hznews.com/xw/tbbd/200509030001.html)さらに、1947年4月26日、谷寿夫中将を載せたトラックの運転手である唐沢其は次のように述べている。「谷寿夫が処刑される場所は小さな丘の窪みであった。彼は縛られることもなく、背中に何の札も立てられていなかった。」(http://picchina.people.com.cn/n/2015/0827/c213236-27525211.html)また、「中国新聞網」というウェブサイトが張涛を紹介する記事の中で、「谷寿夫が処刑される際、縛られることはなく、背中に札も立てられていなかった。」とはっきり記している(https://www.chinanews.com.cn/cul/2012/03-12/3735213.shtml)。
結論
1.「劉方矩将軍」の「劊子手的下場」の文章は、その内容や手法から見て、嘘と悪意に満ちたものである。この文章は、谷寿夫中将を中心にした日本軍の人物を汚名化し、徹底的に貶めることを目的としている。
2.特に注目すべきは、この文章が台湾や中国などのマスメディアや反日プロパガンダが常に用いる卑劣な手法を踏襲している点である。その手法とは、事実や真実を無視し、嘘をでっち上げて、反日感情を植え付け、増幅させることである。
3.「劊子手的下場」の文章は、嘘と悪意が渦巻く反日プロパガンダの典型例と言える。
注1
劉方矩(1914-1981)。日中戦争勃発後、排長、営長、参謀、軍令部二庁二処上校参謀、科長、中国赴香港日軍受降代表団外事組長を歴任。1946年以降、駐イラン大使館武官。1949年台湾に行き、国防部第二庁処長になった。1950年11月、陸軍少将に昇格。その後、国防大学編訳処長、陸軍総司令部第二署署長、国家安全局第二処処長を歴任。1981年3月11日病死。(陳予歓『黄埔軍校将帥録』、広州出版社、1998年9月発行、ISBN 7-80592-838-X)