秦徳純氏が盧溝橋事件発生の第一報を受けた時刻に関する考察

百年非
2024年11月11日

1937年7月7日夜、北平市(現・北京市)郊外の盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍(支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊)に対し、同地に駐屯していた蒋介石率いる国民革命軍(第29軍第37師第110旅第219団第3営)の兵士が実弾を発砲したため、いわゆる「盧溝橋事件」が勃発した。当時、第29軍の副軍長であり、北平市長でもあった秦徳純氏は、盧溝橋事件発生の第一報を受けた時刻について、以下の回想録等において記述している。
 

記述その一

秦氏は『「七七」事変紀実』の中で次のように書いている。
一九三七年七月七日夜十二時十分,德純接冀察外交委員會報告,轉據日本特務機關長松井電話云:“日本陸軍一中隊頃間在蘆溝橋附近夜間演習時,彷彿(聽。筆者追加)見由駐蘆溝橋城内之廿九軍卅七師所部發槍數響,使其演習部隊一時呈紊亂狀態,結果點名檢査,告落兵士一名,日本軍隊今夜要入城檢査等情,究應如何應付,請電話示知。”等語(注1)。(一九三七年七月七日夜十二時十分、徳純ハ冀察外交委員会ノ報告ヲ受ケタ。即チ日本特務機関長松井ノ電話ヲ伝ヘルニ:「日本陸軍一中隊ガ今シ方蘆溝橋附近ニテ夜間演習中蘆溝橋ニ駐屯スル城内ノ二十九軍卅七師所属部隊ノ射撃ヲウケ、演習部隊ハ一時混乱状態ヲ呈シタガ、呼名点呼ノ結果兵隊一名ガ行方不明トナッテ居るノデ、日本軍隊ハ今夜入城シテ検査ヲスルト云ッテ居ルガ、結局如何応対スレバ宜敷イカ、電話デ指示ヲ請フ」トノ事(注2)。
 
この『「七七」事変紀実』(写本)は、1946年4月から9月にかけての中華民国外交部の公文書を集成した『審判遠東戦犯組織国際法廷案』というファイルフォルダに所蔵されている。原本の欄外に、当時、中華民国外交部(外務省)亜東司司長楊雲竹氏による直筆のコメント「秦次長德純抄送(六月赴日作證前)。雲竹 七・廿二(注3)」(秦徳純次長が送ってきた写本(6月に証人として日本に赴く前に)。雲竹 7月22日)が見られる。
また、写本の落款には「前北平市長兼第二十九軍副軍長、軍令部次長秦徳純記述」と記されている。軍令部は中華民国国民政府軍事委員会に隷属する組織であり、1946年5月31日、国民政府が憲政施行を宣言したのち、22年もの間存続していた軍事委員会は廃止され、そのすべての機能は1946年6月1日をもって新設の国防部(国防省)へと移行された。これにより、秦氏の『「七七」事変紀実』が1946年6月以前に作成されたものであることが明らかとなる。
 

記述その二

1946年7月22日、極東国際軍事裁判の検察団は秦徳純氏の『「七七」事変紀実』(検察側書類第1750号)を証拠書類として提出し、法廷証第198号として受理された。秦氏が盧溝橋事件発生の第一報を受けた時刻について、法廷で朗読された『「七七」事変紀実』は次のように述べている。
1937年7月7日夜十二時十分、徳純は冀察外交委員会の報告をうけた。即ち日本特務機関長松井の電話を伝えるに:「日本陸軍一中隊が今し方蘆溝橋附近にて夜間演習中蘆溝橋に駐屯する城内の二十九軍卅七師所属部隊の射撃を受け、演習部隊は一時混乱状態を呈したが、呼名点呼の結果兵隊一名が行方不明となっているので、日本軍隊は今夜入城して検査をすると云って居るが、結局如何応対すれば宜敷いか、電話で指示を請ふ」との事(注4)。
 
尚、当時日本に所在していた中華民国国民政府の出先機関である中華民国駐日代表団は、秦氏の『「七七」事変紀実』の内容を、「據法庭審訊原英文記錄,摘要譯陳」(「法庭審理の英文原記録に基づき、要旨を翻訳し報告するもの」)として本国に速達郵便にて送付した(注5)。その中で、秦氏が盧溝橋事件発生の第一報を受けた時刻に関しては、次のように記されている。
一九三七年七月七日夜十二時十分,德純接冀察外交委員會報告稱:“頃得日本特務機關長松井電話:「日本陸軍一中隊頃在蘆溝橋附近舉行夜間演習時,聽到宛平城内二十九軍所屬三七師部隊所發槍響,演習部隊一時呈混亂狀態,經點名結果,査出兵士一名失蹤,日軍要求於今夜入城檢査。」應如何應付,特以電話請示!”等語(注6)。
(上記の法廷で朗読された『「七七」事変紀実』の和文をご参照下さい。)
 
また、その文末には、「民国三十五年四月二日作於重慶」(「1946年4月2日 重慶にて」)との一分が添えられていることから、秦氏の『「七七」事変紀実』は、1946年4月2日、重慶にて作成されたものであることが判明する。因みに、秦氏の『「七七」事変紀実』の英訳の落款にも「Date: 2 April 1946, Chunking(注7)」(1946年4月2日 重慶にて)が見られる。

記述その三

極東国際軍事裁判の開廷に先立ち、関連資料及び目撃証言などの収集を目的として、極東国際軍事裁判法廷の国際検察局は、1946年3月12日にアメリカ人弁護士ケネス・N・パーキンソン氏と、検察官トーマス・H・モロー大佐を中華民国に派遣した(注8)。両名は、1946年5月24日付で首席検察官ジョセフ・B・キーナン氏に『裁判概要』(Trial brief)を提出した。これによれば、盧溝橋事件発生の第一報を受けた時刻について、秦氏がモロー大佐のインタビューに応じ、次のように述べている。
General Ching spoke of the message he received about 1210 a.m. July 8 from the commissioners of foreign affairs of the Hopei Chahar government(注9).(秦将軍は、7月8日午前0時10分頃冀察政務委員会外交委員会主任委員から受領した伝達について言及した。)
 
要するに、秦氏は『「七七」事変紀実』において、盧溝橋事件発生の第一報を受けた時刻を「7日夜12時10分」と明記したのみならず、モロー大佐に対しても「7月8日午前0時10分頃」、即ち「7日夜12時10分」であることを明言しているのである。
 
記述その一から記述その三に示されるように、秦氏が盧溝橋事件発生の第一報を受けた時刻に関する記述(証言)は、いずれも極東国際軍事裁判が開始される以前の1946年4月に行われたものである。その記述(証言)において、盧溝橋事件発生の第一報を受けた時刻は、1937年7月7日夜12時10分(即ち、8日午前0時10分)と記されている。
しかしながら、秦氏は後年、下記のように、別の著作において、この時刻を1937年7月7日夜11時40分に修正している。
 

記述その四

『海澨談往』:七月七日夜,大約十一時四十分鐘……」(「7月7日夜、11時40分頃……(注10)。」
 
尚、原書には「《海澨談往》係作者秦德純先生於民國五十一年十一月爲紀念其七十壽辰而編印出版。」(『海澨談往』は、秦徳純氏が1962年11月、自らの70歳の誕生日を記念して編輯出版したものである)との一文がある。このことからも明らかなように、秦氏は盧溝橋事件発生から9年後に「7日夜12時10分」と記したものを、25年後の1962年には「7日夜11時40分」へとこっそり変更しているのである。この時刻の改変は不可解であり、何故このような修正が必要だったのか、疑問が残る。極東国際軍事裁判の記録にも残されている『「七七」事変紀実』における事件発生の第一報を受けた時刻を意図的に修正することには、何らかの理由や目的があったと考えられるが、果たして秦氏はどのような意図でこの変更を行ったのであろうか。
 

記述その五

『七七盧溝橋事件経過』:七七之夜,約在十一時四十分鐘……(注11)。(「7月7日の夜、11時40分頃……」)
 

記述その六

『秦徳純回憶録』:當事變當日下午,我在市政府邀宴北平文化界負責人胡適之、梅貽琦、張懷九、傅孟真等諸先生約廿餘人。經報告局勢緊張情形,交換應付意見,諸先生亦均開誠佈公懇切指示。夜十時許散會後,不到兩個小時,象徵我全民抗戰的「七七事變」於十一時四十分即在蘆溝橋開始爆發(注12)。(事変当日の午後、私は市政府において、北平(今の北京。筆者注)文化界の責任者である胡適之、梅貽琦、張懷九、傅孟真をはじめとする約20人の諸先生を招待して食事を共にした。緊迫している局勢の情況が報告され、今後の対応について意見を交換した。諸先生方も皆、心から誠意のある熱心なアドバイスをして下さった。夜の10時過ぎに会合は散会となり、その後わずか2時間足らずで、我が国民の抗戦の象徴となる「七七事変」が、11時40分に蘆溝橋でついに勃発した。)
 
秦氏はさらに続け、次のように述べている。
七七之夜,約在十一時四十分鐘……(注13)。(7月7日夜、11時40分頃……。)
 

考察

秦氏が言う「7日夜12時10分、冀察外交委員の報告を受けた」(記述その一~記述その三)という記述は、著しく疑わしいと言わざるを得ない。何故なら、日本側の一次史料『北平特務機関業務日誌』によれば、北平特務機関の松井太久郎氏は、8日午前0時10分に初めて小野口旅団副官より事件発生の電話連絡を受けた。そして、松井氏は同日0時30分、冀察外交委員会の林耕宇氏に電話で直ちに事態の収拾を通告した(注14)(図1参照)。従って、「7月7日夜12時10分」(即ち、8日午前0時10分)の時点では、松井氏はまだ冀察外交委員会に電話連絡をしておらず、秦氏が「7月7日夜12時10分」に冀察外交委員会から電話連絡を受けたということは、到底あり得ないことが明白である。ましてや、「7日夜11時40分」に冀察外交委員会から電話連絡を受けたという記述に至っては、ますます信憑性に欠けると言わざるを得ない。

図1

結論

秦氏が中華民国国民政府の高官でありながら、このような不誠実な記述(証言)を行ったことは、その立場に相応しくない行為と言わざるを得ない。特に、盧溝橋事件発生に関する第一報の時刻の不一致は、秦氏が史実の記述において恣意的な改変や捏造を行ったと疑われても仕方がない。
日本側の一次史料である『北平特務機関業務日誌』によれば、松井氏が8日午前0時10分に初めて事件の発生を知ったとされており、秦氏が「7月7日夜12時10分」に冀察政務委員会から報告を受けたとする記述(証言)は、事実と大きく食い違っている。更に、「7日夜11時40分」という別の記述は、その信憑性を一層損ねている。
秦氏は、中華民国国民政府の高官としての責任を果たすべき立場にありながら、明らかに矛盾した不誠実で不正確な記述(証言)を残したことは、歴史的信頼を著しく損ねる行為である。極東国際軍事裁判において秦氏の『「七七」事変紀実』が十分な検証を経ずに採用された事実が象徴するように、この種の虚偽に基づく記述(証言)は、後世の歴史認識に計り知れない悪影響を及ぼしていることは明白である。

注記

注1:中華民国外交部『審判日本戦犯組織遠東国際軍事法庭案(二)』、国史館蔵、数位典蔵号020-010117-0030。https://ahonline.drnh.gov.tw/index.php?act=Display/image/5023384p=mvPNv#YYPl
注2:法廷証第198号:「七七」事変紀実/秦徳純(文書名:GHQ/SCAP Records, International Pro-secution Section=連合国最高司令官総司令部国際検察局文書;Entry No.327 Court Exhibits in English and Japanese, IPS, 1945-47)。国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/10273643/1/5)
注3:https://ahonline.drnh.gov.tw/index.php?act=Display/image/5023384p=mvPNv#75C
注4:極東国際軍事裁判公判記録刊行会編纂『極東国際軍事裁判公判記録Ⅱ』、富山房、1949年1月発行、430頁。https://dl.ndl.go.jp/pid/1459306/1/76?keyword=%E4%BA%8B%E5%A4%89%E7%B4%80%E5%AE%9F
注5:中華民国外交部『審判日本戦犯組織遠東国際軍事法庭案(三)』、国史館蔵、数位典蔵号020-010117-0031。https://ahonline.drnh.gov.tw/index.php?act=Display/image/5020891ugIWwq=#74mu
注6:中華民国外交部『審判日本戦犯組織遠東国際軍事法庭案(三)』、国史館蔵、数位典蔵号020-010117-0031。https://ahonline.drnh.gov.tw/index.php?act=Display/image/5020891ugIWwq=#HCLt
注7:Pros. Doc. No. 1750: "Factual Account of July 7th Incident" by General CHING, Teh-Chun, former Mayor of Peiping. (Marco Polo Bridge, 1937) (文書名:GHQ/SCAP Records, International Prosecution Section=連合国最高司令官総司令部国際検察局文書;Entry No.329 Numerical Evidentiary Documents Assembled as Evidence by the Prosecution for Use before the IMTFE, 1945-47)、12頁
注8:The China Press, “Morrow Concludes China Tour, Gathered Evidence for the Trial”, April 10, 1946. Section 14, Folder 60, MSS1, Virginia Historical Society. http://imtfe.law.virginia.edu/collections/page-1-3909
注9:http://imtfe.law.virginia.edu/collections/morgan/3/4/all-china-military-aggression-1937-1945、13頁
注10:『海澨談往』、秦德純著『秦德純回憶録』所収、伝記文学出版社、1967年1月発行、177頁
注11:中国人民政治協商会議全国委員会文史資料研究委員会『七七事変』編審組編『七七事変』所収、中国文史出版社、1986年5月発行、14頁
注12:『秦徳純回憶録』、伝記文学出版社、1967年1月発行、7頁
注13:前掲書8頁
注14:https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C11111722400。尚、松井氏が7月7日夜12時10分、即ち7月8日午前0時10分に、小野口旅団副官から事件発生の第一報の電話連絡を受けた件については、寺平忠輔著『蘆溝橋事件:日本の悲劇』(読売新聞社、1970年7月発行、86頁)をご参照下さい。

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