「南京大虐殺30万人」の人数に関する考察

百年非
2023年5月3日第一稿、2024年8月15日改訂

 「南京大虐殺30万人」説で言及される犠牲者は、南京市民および南京戦に参戦した中華民国「国軍」(蒋介石氏が率いた国民革命軍)の兵士に限ると考えられる。ゆえに、南京陥落前後における市民の人口と国軍の死者数を明らかにすることは、「南京大虐殺30万人」説の正当性を検証するための重要な鍵であり、最も説得力のある方法であると考える。
 この考察は、日本軍による組織的かつ計画的な殺害、いわゆる「大虐殺」の当否を検証するものではない。むしろ、南京戦における死者数の観点から「南京大虐殺30万人」説の可能性を探るものである。

考察一 南京陥落前の人口数

 南京陥落前の人口について、筆者の考察文「1937年12月13日南京陥落前後の人口データについて」をご参照いただきたい。当該考察文の結論は以下の通りである。
 南京安全区国際委員会委員長であったジョン・ラーベ氏が1937年11月28日の日記に次のように記している。
 Wang Kopang, the chief of police, has repeatedly declared that 200,000 Chinese are still living in the city(注1).(警察庁長の王固磐は20万人の中国人がまだ市内に住んでいると繰り返し明言した。)
 当時、中華民国内政部に隷属する首都警察庁は、戸籍及び人口統計などを管轄する行政機関であり、その最高責任者であった王固磐庁長が繰り返し明言した南京の人口「20万人」は、公式発表と見做されるべきである。したがって、このデータは最も信憑性の高いものであると考える(注2)。筆者は、1937年11月28日から12月13日南京陥落までの間に市民が外地への避難や疎開を続けていたため、陥落時の実際の人口数は20万人を下回る可能性が非常に高いと見ている。本考察では、20万人を前提として議論を進める。
 また、胡縄氏(注3)は中国語版『ラーベ日記』の序文において次のように述べている。
 この日記に記された内容は、全てラーベが直接体験し、見聞きした非常に具体的で詳細で真実なものであり、誰もその信頼性を否定することはできない(注4)
 筆者は、「王固磐は20万人の中国人がまだ市内に住んでいると繰り返し宣言した」と紹介するオリジナルの資料や刊行物を見つけることはできなかった。しかし、『ラーベ日記』の信頼性について、胡縄氏が「誰もその信頼性を否定することはできない」とお墨付きを与えている以上、「王固磐は20万人の中国人がまだ市内に住んでいると繰り返し宣言した」という記述の正当性を認めざるを得ないと考える。
 さらに、ジョン・ラーベ氏が1938年1月から2月の日記において、陥落後の南京市民の人口数について、20万人から25万人の難民が南京市内の「安全区」に居住していたことを何度も記録している。当時の南京は中華民国の首都であり、その主要部分は城壁で囲まれ、城内外にわたって第一区から第八区までの八つの行政区に分けられていた。図1(注5)及び図2(注6)をご参照いただきたい。

図1

 図1は、「南京市土地登記区域図」であるが、八つの区の大まかなエリアを表しているだけである。

図2(加工筆者)

 図2に「安全地区」(赤線の区域)、即ち南京安全区(Nanking Safety Zone)が示されている。南京陥落時、南京に留まっていた市民約20万人が安全区内に避難していた。原注によると、水色線の区域は、1938年3月、調査が行われた時点で、「居民稀少の地区」であったという。
 ちなみに、南京陥落時の人口が20万人であったことについては、南京特務機関の『南京班第一回報告』も有力な証拠の一つである。井上久士編『華中宣撫工作資料』の資料19に収録された南京特務機関の『南京班第一回報告』(1938年1月21日提出)の中に次の記述が見られる。
 去ル十二月十三日皇軍カ頑強ナル敵ノ抵抗ヲ排除シ、南京ヲ占領セル際ニハ、人口モ著シキ減少ヲ示シ居リシモ、而モ尚逃ケ遅レ城内ニ避難シ居リシ支那民衆ハ大人男子一〇万、女子五万、少年少女五万計約二〇万ト推定セラレ、是等難民ノ処理如何ハ皇軍入城後即時ニ当面セル大問題タリキ(注7)

考察二 譚道平氏『南京衛戍戦史話』に見られる国軍の死者数

 譚道平氏『南京衛戍戦史話』によると、南京戦の国軍の総力は81,000人、負傷・戦死者及び行方不明者は36,000人であった。図3「南京衛戍戦兵力傷亡概数統計表」(注8)をご参照いただきたい。

図3 「南京衛戍戦兵力傷亡概数統計表」 (筆者が『南京衛戍戦史話』に基づき整理作成)

 譚氏は南京戦において「衛戍司令長官部参謀処上校科長」(防衛司令長官部参謀処上佐課長)という要職にあった。彼は『南京衛戍戦史話・自序』において次のように述べている。
 戦争が始まってから我が軍が撤退するまで、重要な会議が何度も開催され、私は頻繁に出席し、傍聴したり、記録を取ったりしていた。蒋介石の訓示の言葉は今でも鮮明に耳に残っている。
 この記述からも明らかなように、譚氏は当時、軍の中枢に身を置き、重要な職務を担当していたため、最も核心的な情報やデータに触れることができる立場にあった。したがって、南京戦に於ける国軍の総兵力や死傷者数について、譚氏の証言の信憑性は極めて高いと言える。
 南京戦において、国軍の負傷・戦死者及び行方不明者の合計は36,000人とされている。仮にこの36,000人全員を戦死者と見なした場合、「南京大虐殺30万人」とされる人数から36,000人を差し引くと、264,000人の南京市民が殺された計算になる。しかし、南京陥落時の人口は20万人しかなかったことから、どうして264,000人もの南京市民を殺すことができたのであろうか。「大虐殺」が本当にあったとするならば、南京の人口は前代未聞のマイナス64,000人になる。このような荒唐無稽な状況が現実に起こり得るのであろうか。
 南京戦における国軍の戦死者数に関して、日本陸軍第六師団作成の「追撃並に南京攻撃に於ける彼我損傷一覧表」から有力な情報を得ることができる。図4(注9)をご参照いただきたい。
 この「一覧表」によれば、1937年12月3日から13日までの間に、国軍の「戦場遺棄死体」の数は17,100人に上る。これを基に逆算すると、「南京大虐殺30万人」とされる人数から17,100人を差し引くと、282,900人の南京市民が殺された計算になる。しかし、南京陥落時の人口は20万人しかなかったのに、どうして282,900人もの南京市民を殺すことができたのであろうか。「大虐殺」が本当にあったとするならば、南京の人口は前代未聞のマイナス82,900人になる。このような荒唐無稽な状況が現実に起こり得るのであろうか。
 また、南京戦における国軍の総兵力について、図4の42,000人は図3の49,000人と驚くほど高い整合性を示しており、考察七のアリソン氏の「南京情況報告」の「5万人以下」、東京裁判判決文の「約5万人」とも一致している。このようなデータの整合性からも、「南京大虐殺30万人」説の妥当性には大きな疑問が残ると言わざるを得ない。

図4

考察三 何応欽氏『八年抗戦之経過』に見られる南京戦の死者数

 何応欽氏(注10)が『八年抗戦之経過』の第三篇「第一期作戦経過概要・第一章 第一期第一階段・第二節 東戦場・三、南京放棄」に次のように書いている。
 (1937年12月。追加筆者)13日、敵が南京を占領した。我が南京防衛軍は突破して撤退した者を除いて、残りの者は何れも壮烈な犠牲を遂げた。……敵が南京を占領した後、……我が民衆や女性、子供たちは蹂躙惨殺された者は10万人以上と統計されている(注11、図5)

図5

 図5「南京放棄」に関する記述は句読点を含めても588字に過ぎず、「我が民衆や女性、子供たちは蹂躙惨殺された者は10万人以上と統計されている」とのみ述べられている。「南京大虐殺30万人」という表現や記述は一切見られない。さらに、『八年抗戦之経過』の前書きの日付は中華民国35年(1946年。注記筆者)4月20日であり、南京の陥落(1937年12月13日)から8年4ヵ月、終戦(1945年8月15日)から8ヵ月が経過しているにもかかわらず、「南京大虐殺30万人」に言及することはなく、「南京大虐殺」という言葉も見当たらない。もし本当に「南京大虐殺30万人」という「最も恐ろしい残虐行為」(東京審判判決書の言葉)が存在していたならば、当時の陸軍総司令官であった何応欽氏がそれを知らないはずがない。以上の点から、何応欽氏は当時、「南京大虐殺」という概念を持っていなかったと考えられる。
 さらに、仮に10万人の南京市民が日本軍によって殺されたとすると、さらに20万人が殺されなければ「30万人」にはならない。しかし、南京陥落時の人口は約20万人に過ぎなかった。これは、南京市に残っていた20万人が全て日本軍に殺害された上に、さらに10万人が追加で殺害されたことを意味する。しかし、現実には、南京陥落後も多数の生存者が南京におり、日本軍の統治下で生活を続けていたことが知られている。南京市民が一人残らず全員殺されたという前代未聞の荒唐無稽な状況が現実に起こり得るであろうか。「南京大虐殺30万人」という矛盾に満ちた主張が成り立たないことは明白である。
 また、戦後の調査や証言においても、このような数字は支持されていない。これらの事実からも、「南京大虐殺30万人」という主張は虚構に他ならないことが明らかである。

考察四 「作戦以來歴年我軍官兵傷亡統計表」と「国軍抗戦官兵傷亡統計表」に見られる国軍の死者数

 前述の『八年抗戦之経過』の附錄「作戦以來歴年我軍官兵傷亡統計表」(作戦以來歴年我が将校と兵士の傷亡統計表。図6)によると、民国26年(1937年)、負傷者は242,232人、戦死者は125,130人である。一方、『何上将抗戦期間軍事報告(下)』の附表四十「国軍抗戦官兵傷亡統計表」(国軍抗戦将校兵士傷亡統計表。1941年1月31日軍政部軍務司作成。図7)によると、「七七抗戦(注12)から1937年12月末まで」の約半年間、国軍将校の戦死者数は4,884人、兵士の戦死者数は119,856人で、合計戦死者数124,740人である(注13)。これは図6の戦死者数125,130人とほぼ一致し、その差は僅か390人である。

図6
図7

 仮に図6の戦死者125,130人が全て南京で日本軍によって殺害されたとすると、「南京大虐殺30万人」とされる人数から125,130人を差し引いた174,870人の南京市民が追加で殺されない限り、「30万人」にはならない。しかし、南京陷落時の人口は約20万人であり、174,870人が追加で殺されると、南京の人口は25,130人しか残らないことになる。これまでの各種史料や書籍において、日本軍による「大虐殺」が行われた後に南京の人口が25,130人しかなかったという記述(記録)は一切存在しない。
 さらに、当時の南京安全区国際委員会委員長であったジョン・ラーベ氏は、1938年1月から2月の日記で、陥落後の南京には20万人から25万人の難民がいることを何度も記録している。もし南京陥落後に174,870人もの南京市民が追加で殺されたのならば、これはラーベ氏の記録と大きく矛盾することになる。実際には、日本軍が1937年12月13日に南京に入城した後、治安が回復し、疎開していた市民が戻ってきて、南京の人口は短期間に20万人から25万人に増加したことが示されている。これは、日本軍による「大虐殺」が全くなかったことを示す強力な証拠である。
 同様に、図7の戦死者124,740人(将校4,884人+兵士119,856人)が全て南京で日本軍によって殺されたと仮定した場合、「南京大虐殺30万人」とされる人数から124,740人を差し引いた175,260人の南京市民が追加で殺されたことになる。南京陥落時の人口が約20万人であるため、175,260人が殺されると、南京の人口は24,740人しか残らないことになる。しかし、これまでの各種史料や書籍において、日本軍による「大虐殺」が行われた後に南京の人口が24,740人しかなかったという記述(記録)は一切存在しない。
 このように、各種史料や書籍において、日本軍による「大虐殺」の後に南京の人口が激減したという記述や記録は一切存在しない。これは、「南京大虐殺30万人」という主張が虚偽であることを裏付ける強力な証拠である。

考察五 何応欽『対臨時全国代表大会軍事報告』に見られる記述

 何応欽氏が『対臨時全国代表大会軍事報告』の三「国防設施与抗戦経過・寅、陸軍之作戦・(一)開戦起至南京失陥止作戦経過・丙、東戦場方面」の中で次のように書いている。
 4.南京の陥落。(1937年、追加筆者)11月26日、錫澄線を放棄した後、教導総隊、第36師、第88師に南京を防衛するよう命令し、続いて第74軍、第66軍、第83軍、第10軍に順次南京防衛に参加するよう命令した。しかし、各部隊は長期間の戦闘により疲弊し、蘇州河から南京に撤退する途中で戦いを繰り返し、休息の暇がなかった。第10軍も新兵が多く、戦闘力が弱かったのである。12月5日に湯山、淳化鎮近くで激戦が起こり、8日には湯山が陥落し、複廓陣地に撤退したが、敵は追撃し、各部隊が激戦を繰り広げたものの、最終的に夥しい負傷者と戦死者を出した。12日に雨花台が陥落し、遂に南京を放棄するよう命令が下されたのである。13日、敵が南京を占領した(注14、図8)

図8

 1938年3月29日から4月1日にかけて武昌で開催された国民党臨時全国代表大会は、南京陥落から既に三カ月半が経過した時点で行われた。この大会における何応欽氏の『対臨時全国代表大会軍事報告』に記された「南京の陥落」についての記述は、句読点を含めてもわずか202字に過ぎず、「南京大虐殺」に関する言及は一切見られない。また、1948年12月に記された何応欽氏の『何上将抗戦期間軍事報告』の序文においても、「南京大虐殺30万人」についての言及は全くなされていない。南京陥落から11年が経過し、中華民国国防部審判戦犯軍事法庭や極東国際軍事法庭による裁判も既に終了していたにもかかわらず、このような重要な事実について触れられていないのである。
 これらの事実は、当時の中華民国政府や軍事指導者たちが「南京大虐殺30万人」という主張を公式に認識していなかった可能性を強く示唆している。何応欽氏は国軍の最高級将校の一人であり、そのような大規模な虐殺について一切言及しなかった事実は、当時の国軍及び中華民国政府内部にそのような認識が存在しなかったことを示している。これにより、「南京大虐殺30万人」という主張が反日プロパガンダによって捏造されたものであることが一層明白となる。
 さらに、南京陥落直後の国際的な報道や証言においても、30万人もの大虐殺が行われたという記述は見当たらない。南京戦後の調査や証拠においても、このような大量虐殺を裏付ける確固たる証拠は存在しない。以上の事実を総合的に考慮すると、「南京大虐殺30万人」という主張は、史実に基づかない虚構であることが明らかである。

考察六 朱子爽『抗戦志略』に見られる死者数

 朱子爽氏が『抗戦志略』の第四章「八年來戦績概述・1、第一期戦績概述・丁、京滬会戦」の中で次のように書いている。
 (1937年12月。追加筆者)13日敵が南京を占領した。我が守備部隊は、突破した者を除き、全員が壮烈な犠牲を遂げた。敵が南京を占領した後、城内で大規模な暴行・強姦・殺戮が行われ、我が民衆の死者は10万人以上で、現代史上類例なき残虐な記録となった(注15、図9)

図9

 この記述の内容は、『八年抗戦之経過』の第三篇「第一期作戦経過概要・第一章 第一期第一階段・第二節 東戦場・三、南京放棄」(考察三)の内容とほぼ同じあるが、「我が民衆の死者は10万人以上」という数字は共通している。『抗戦志略』が出版された1947年2月の時点で、南京が陥落してから既に9年が経過し、中華民国国防部審判戦犯軍事法庭による谷寿夫氏に対する裁判も始まっていた。しかし、本の「弁言」及び本文には、「南京大虐殺30万人」という記述や言葉が全く見られない。
 仮に民衆の死者が10万人であるとし、さらに図3に記載されている軍人の「負傷・戦死者及び行方不明者」36,000人を加えると、合計で136,000人となる。この136,000人を「南京大虐殺30万人」とされる人数から差し引くと、164,000人の南京市民が追加で殺されなければ、「30万人」にはならない。しかし、南京陷落時の人口は約20万人であり、もし164,000人の市民が追加で殺されたとすると、南京市の人口はわずか36,000人しか残らないことになる。
 当時の南京安全区国際委員会委員長であったジョン・ラーベ氏は、1938年1月から2月の日記において、南京陥落後も20万人から25万人の難民がいたことを繰り返し記録している。仮に南京陷落後に本当に164,000人の市民が殺されていたならば、南京陥落後の難民数はジョン・ラーベ氏が述べる20万人から25万人ではなく、36,000人から86,000人でなければならない。しかし、これまでの史料や書籍には、日本軍による「大虐殺」後に南京の人口が36,000人から86,000人しか残っていなかったという記述は一切存在していない。
 これらの事実は、「南京大虐殺30万人」という主張が虚偽であることを裏付けるものである。南京陥落後も多くの市民が生存していたという記録は、日本軍による「大虐殺」が現実には起こらなかったことを強く示唆している。したがって、「南京大虐殺30万人」という主張は、歴史的事実に基づかない虚構であると結論付けることができる。

考察七 米国外交文書などに見られる記述

 以下の内容は張憲文主編『南京大屠殺史料集』第七冊『東京審判』(東京裁判)より引用する。
 二、検察側による日本軍南京大虐殺の証拠
 (三)法廷により確認された書類証拠の全文
 7.日本軍暴行に関する米国大使館の外交電報
 第1905号書類
 ジョンソン大使に上呈するアリソン(John M. Allison)の南京情況報告
「信頼できる情報によれば、南京の陥落を前にして、中国軍と市民が着実に南京から離れ、逃げ出していった。南京の人口の約4/5が逃げ出し、中国軍の主力部隊も多くの装備・物資と共に退却した。南京防衛の為に残されたのは5万人以下の軍隊だけであったが、実際の人数はさらに少なかったかも知れない。南京が陥落した後、多くの兵士が北門や西門から逃げ出し、中には城壁を越えて脱出した者もいた。
 実際には、包囲された中国軍部隊は多くなく、城内には比較的少数の包囲された兵士しかいなかった。南京に残留した中国兵士の人数は不明であるが、数千人が軍服を脱いで、市民服に着替えたり、市民の中に紛れ込んだり、あるいは隠れる場所を探したりしていたことは確実である。アメリカ人居住者たちは、中国兵士が実際にどれだけ逃げ出したかはっきりとは分からなかったが、彼ら(日本軍。注記筆者)が城内にいた兵士全員を見つけ出して殺す戦役を行った際、彼ら(日本軍。注記筆者)は10万人を見つけることを望んでいた。しかし、彼ら(日本軍。注記筆者)が全南京市を捜索して元中国兵士たちを探し出そうとしたところ、期待した人数の兵士を見つけることができず、怒りを覚えたという(注16)。」
 
 以下の内容は張憲文主編『南京大屠殺史料集』第七冊『東京審判』(東京裁判)より引用する。
 四、判決文(南京大虐殺関連)
 (一)通例の戦争犯罪
 1.南京暴虐事件
 「一九三七年十二月の初めに、松井の指揮する中支派遣軍が南京に接近すると、……中国軍はこの市を防衛するために約五万人の兵を残して撤退した。一九三七年十二月十二日の夜、日本軍が南門に殺到すると、五万の残留軍の大部分は市の北門と西門から退却した。中国兵のほとんどは、市を撤退するか、武器と軍服を棄てて国際安全地帯に避難した……。これらの無差別の殺人によって、日本側が市を占領した最初の二、三日の間に、少なくとも一万二千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した(注17)。」(判決文に記載されている「12,000人の非戦闘員」という表現は、恐らくH・J・ティンパーリー著『戦闘とはなにか』に基づくものであろう。同書の第三章「約束と現実」において、ティンパーリー氏は次のように述べている。「埋葬による証拠の示すところでは、四万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の附近で殺され、そのうちの約三〇パーセントはかつて兵隊になったことのない人びとである(注18)。」この記述に基づいて計算すると、四万人の三〇パーセントは正確に12,000人となる。)
 図3の「南京衛戍戦兵力傷亡概数統計表」によれば、南京戦の際、国軍の「戦闘兵」は合計49,000人である。これはアリソン氏の「中国軍はこの市を防衛する為に、約5万人の兵を残した」との証言や、東京裁判判決文に記されている「中国軍はこの市を防衛するために、約5万人の兵を残して撤退した」との記述とほぼ一致している。このことからも、日本軍が南京城内で「10万人」を「見つけて」「殺す」ことは現実的に不可能であることが示唆される。
 さらに、「非戦闘員である中国人男女子供が死亡した」12,000人に、図3の「負傷・戦死者及び行方不明者」36,000人を加えると、合計で48,000人となる。「南京大虐殺30万人」とされる人数からこの48,000人を差し引いた場合、252,000人の南京市民が追加で殺されなければならない。しかし、南京陷落時の人口は約20万人であり、仮に252,000人の市民が追加で殺されたとすれば、南京の人口は前代未聞のマイナス52,000人となる。このような荒唐無稽な状況が現実に起こり得るであろうか。
 また、南京安全区国際委員会委員長であったジョン・ラーベ氏の日記には、南京陥落後も20万人から25万人の難民がいたことが記録されている。もしも南京で252,000人の市民が追加で殺されたのであれば、ラーベ氏の日記に記されている難民数は全く異なる数字となるはずである。また、これまでの史料や書籍にも、日本軍による「大虐殺」後に南京の人口が激減したという記述は一切見られない。

考察八 南京大屠殺史研究専門家孫宅巍氏『南京大屠殺遇難同胞中究竟有多少軍人』に見られる国軍の死者数

 江蘇省社会科學院研究員で南京大屠殺史研究専門家の孫宅巍氏は、『南京大屠殺遇難同胞中究竟有多少軍人』(南京大虐殺の犠牲者の中にいったいどの位の軍人がいたのか)において、次のように書いている。
 「総じて言えば、南京大虐殺の犠牲者の範疇に該当する軍人の数は、集団虐殺された捕虜や安全に撤退した兵士に関する公表済みの数字の制約があるものの、7万から9万人の間、即ち最低でも7万人以上、最高でも9万人以下であると考えられる。犠牲者に占める割合は約25%、つまり約1/4を占めている(注19)。」
 孫氏が主張する「南京大虐犠牲者の範疇に該当する軍人の数」は「最低でも7万人以上、最高でも9万人以下」という見解は、全く根拠がなく、成立し得ないと言わざるを得ない。何故なら、「南京大虐殺30万人」のうち「25%」、すなわち75,000人が軍人とされているが、図3に示す通り、南京戦における国軍の負傷・戦死者及び行方不明者の合計は36,000人に過ぎない。したがって、75,000人の軍人が虐殺されたという孫氏の主張は全く現実味がない。
 さらに、「南京大虐殺30万人」とされる人数から75,000人を差し引いた225,000人の南京市民が追加で殺されなければならない。しかし、南京陷落時の人口は約20万人であり、もし225,000人の南京市民が追加で殺されたとすると、南京市の人口は前代未聞のマイナス25,000人となる。このような荒唐無稽な状況が現実に起り得るはずがない。
 以上の事実から、「最低でも7万人以上、最高でも9万人以下」という孫氏の主張は全く信憑性が無く、単なる憶測に過ぎないことが明らかである。このような、中国政府(共産党)の反日プロパガンダの目的に迎合する主張は、「南京大虐殺」に関する精査・検証において全く信用に値しないと言わざるを得ない。

考察九 松井石根に対する東京裁判判決文に見られる死者数

 以下の内容は張憲文主編『南京大屠殺史料集』第七冊『東京審判』より引用する。
 四、判決文
 (二)判決
 1.松井石根
 「南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であった。……この六、七週間の期間において、……十万以上の人々が殺害された(注20)。」
 南京陥落から11年後に言い渡された判決文において、「南京大虐殺30万人」という具体的な法廷判断は示されず、「十万以上の人々が殺害された」という曖昧な記述にとどまった。この事実は、反日プロパガンダとしてでっち上げられた「南京大虐殺30万人」という主張の虚構性を明らかにし、その信憑性が完全に破綻していることを示している。
 さらに、当時の中華民国側が終戦後に作成した矛盾だらけの証拠資料を基に、極東国際軍事法廷がその真偽を慎重に精査・検証することなく採用し、弁護側の主張にも全く耳を傾けなかったこと、一切の物証無しに「十万人以上」という数字を誤認したことは、重大な問題であると言わざるを得ない。このような背景からも明らかなように、極東国際軍事法廷の裁判には正当性が欠けていたと言えるであろう。
 また、この裁判の判決文の内容は、歴史的事実の歪曲や誤解を助長し、その影響は現在に至るまで続いている。歴史の真実を解明するためには、当時の状況や証拠を冷静に再検証し、偏った見解に基づく誤った認識を是正することが急務であると言える。歴史の真実は、真摯な精査・検証と公平な視点に基づいてのみ明らかにされるべきである。

考察十 中華民国代表顧維鈞氏が第100回国際連盟理事会第六次会議で公表した死者数

 1938年2月2日、中華民国代表の顧維鈞氏は第100回国際連盟理事会第六次会議で演説し、「南京で日本軍によって虐殺された中国市民の数は約2万人と推定されている」と表明した(注21、図10)。ロイター社は1938年2月3日にこれを配信した(注22、図11)。

図10
図11

 ここで明確に指摘しておきたいのは、1937年8月に国民党中央政治委員会第五十一次会議で設置された全国国防最高意思決定機関である「国防最高会議」が、1938年1月24日に顧維鈞氏の演説内容について明確な指示を与えたことである(注23、図12)。
 南京が陥落してから既に1ヵ月以上経過している時点で、もし本当に「南京大虐殺30万人」という「最も恐ろしい残虐行為」(東京審判判決書の言葉)が発生していたならば、国防最高会議がその事実を知らないはずがない。この点からも明らかなように、国防最高会議及び中華民国政府は当時、「南京大虐殺」という概念を持っていなかったと考えられる。このことは、当時の中華民国政府が「南京大虐殺」に関する主張を公に認識していなかった可能性を示唆し、後に反日プロパガンダとして用いられることになった「南京大虐殺30万人」という主張の虚構性を浮き彫りにしている。

図12

考察十一 イェール文献に見られる死者数

 以下の内容は張憲文主編『南京大屠殺史料集』第69冊『耶魯文獻(下)』(イェール文献(下))より引用する。
 二十五、政治と宗教の情勢 1939年
 252.出来事の鏡に映る日本のプロパガンダ
 ――中国に長く住む米国人レイトン・スチュワート
 「最も信頼できる事実は、上海・南京地域において、日本軍の進軍中に少なくとも30万人の市民が殺害されたと見積もられていることである。南京では、保護が約束されて自発的に武装解除した兵士や市民が恣意に殺害された(注24)。」
 これを読む限り、上海戦(1937年8月13日から始まった第二次上海事変)と南京戦(南京事変)で、上海と南京の両地域を合わせて30万人の死者が出たとされる。この事実は、「南京大虐殺30万人」という主張を完全に否定する決定的な証拠となる。もし本当に「南京大虐殺30万人」が発生していたならば、上海戦でも大量の死者が出たとする矛盾が生じる。
 さらに、仮に「南京大虐殺」が実際に起っていたと仮定すると、上海戦(第二次上海事変)では一人の死者も出なかったことになるが、これは現実的ではない。このように、歴史的な記録や証拠を精査すればするほど、「南京大虐殺30万人」という主張は矛盾に満ちており、その虚構性が明らかになる。

結論

 1.「南京大虐殺30万人」の主張は根拠を欠く
 ジョン・ラーベ氏の日記に基づくと、南京陥落時に20万人から25万人の市民が安全区に避難していたことが確認されており、この事実から見ても、南京で30万人が虐殺されたという主張は極めて不合理であり、虚構であると判断できる。さらに、南京戦における国軍の戦死者数の精査から、「南京大虐殺30万人」という主張は全く根拠のない捏造であることが明らかである。

 2.反日プロパガンダとしての虚偽
 「南京大虐殺30万人」説は完全に反日プロパガンダの産物であり、その信憑性は全くない。歴史の真実を解明するためには、これらの虚偽を排除し、事実に基づいた認識を持つことが不可欠である。

 3.極東国際軍事裁判所の誤審
 極東国際軍事裁判所の裁判は根本的な誤審であり、松井石根大将らに対する冤罪と戦犯の汚名を早急に返上するべきである。
 裁判では反日プロパガンダに基づく誤った証言や証拠が多く採用され、歴史的事実に基づかない判決が下された。その結果、松井大将らは不当に処罰され、日本の名誉が傷つけられた。公正な裁判が行われていれば、松井大将らが戦犯とされたことはなかったであろう。歴史の真実を再評価し、誤った判決を正すことは国際社会の義務である。

謝辞
本考察文を纏めるにあたり、南京の渋多勘八先生をはじめとする方々より貴重なご意見を沢山賜りました。心から感謝の意を表します。

注記
 
注1
『The GOOD MAN of NANKING–THE DIARIES OF JOHN RABE』、ALFRED A. KNOPE, INC出版社、1998年発行、ISBN 0-375-40211-X、39頁
 
注2
南京市市長馬超俊『南京市政府關於本市戶口異動情形致内政部咨文』(1937年11月10日付):「本市の戸籍人口の調査統計を調べることは、城区においては区以下の保甲組織が未だ充実しておらず、戸籍人口の変動の調査が困難であるため、今までは首都警察庁の戸籍人口報告を根拠にしていた。……本市の戸籍人口の実情をより早く掴めるには、警察庁の報告を採用するのが手っ取り早い方法と考える。」中国第二歴史檔案館・南京市檔案館・「南京大屠殺」史料編輯委員会編輯『侵華日軍南京大屠殺檔案』、江蘇古籍出版社、1987年11月発行、ISBN 7-80519-054-2、701頁
 
注3
胡縄:中国共産党政権成立後、党中央宣伝部秘書長、共産党機関雑誌「紅旗」副編集長などを歴任。文化大革命終結後、党中央文献研究室副主任、同党史研究室主任を歴任。1985年から1998年まで中国社会科学院院長の職にあった。2002年死去。
 
注4
張憲文主編『南京大屠殺史料集』第13冊『拉貝日記』、江蘇人民出版社・鳳凰出版社、2006年1月発行、ISBN 7-214-01963-9
 
注5
大坪慶之『南京市房産档案館収蔵の民国期地政資料について:「南京市旧地籍図」を中心に』、https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/
27031
 
注6
ルイス・S・C・スミス編『南京地区における戦争被害』、洞富雄編『日中戦争資料9』所収、河出書房新社、1973年11月発行、275頁
 
注7
井上久士編『華中宣撫工作資料』の資料19に収録された南京特務機関の『南京班第一回報告』、『十五年戦争極秘資料集』第13集所収、不二出版、1989年12月発行、148頁
 
注8
譚道平著『南京衛戍戦史話』、東南文化事業出版社、1946年7月発行、93-95頁
 
注9
アジア歴史資料センター、https://www.jacar.archives.go.jp、Ref.C11111026200
 
注10
何応欽。1937年当時「国軍」の軍政部長、第四戦区司令長官。梅津・何応欽協定で有名な人。『八年抗戦之経過』発行時は陸軍総司令官。1987年死去。
 
注11
何応欽『八年抗戦之経過』、https://taiwanebook.ncl.edu.tw/zh-tw/
book/NCL-002573315/reader
 
注12
「七七抗戦」は1937年7月7日の盧溝橋事件が抗日戦争の始まりとされている。
 
注13
『何上将抗戦期間軍事報告(下)』、https://taiwanebook.ncl.edu.tw/
zh-tw/book/NCL-9900009101/reader
 
注14
『何上将抗戦期間軍事報告(上)』、https://taiwanebook.ncl.edu.tw/
zh-tw/book/NLPI-31120003452801/reader
 
注15
朱子爽『抗戦志略』、国民図書出版社、1947年2月発行、53頁
 
注16
張憲文主編『南京大屠殺史料集』第七冊『東京審判』、江蘇人民出版社・鳳凰出版社、2005年7月発行、ISBN 7-214-04025-5、333頁
 
注17
張憲文主編『南京大屠殺史料集』第七冊『東京審判』、江蘇人民出版社・鳳凰出版社、2005年7月発行、ISBN 7-214-04025-5、606-607頁。判決文の和訳は極東国際軍事裁判所判決文https://dl.ndl.go.jp/
pid/1276125/1/143より引用。
 
注18
H・J・ティンパーリー編『戦争とはなにか』、洞富雄編『日中戦争資料9』所収、河出書房新社、1973年11月発行、47頁
 
注19
孫宅巍著『南京大屠殺遇難同胞中究竟有多少軍人』、『抗日戦争研究』1997年第4期所収、近代史研究雑誌社、1997年11月発行、16-17頁
 
注20
張憲文主編『南京大屠殺史料集』第七冊『東京審判』、江蘇人民出版社・鳳凰出版社、2005年7月発行、ISBN 7-214-04025-5、610頁。判決文の和訳は極東国際軍事裁判所判決文https://dl.ndl.go.jp/
pid/1276125/1/166より引用。
 
注21
https://archives.ungeneva.org/100e-session-du-conseil-de-la-societe-des-nations-janvier-1938-proces-verbaux
 
注22
台湾国史舘檔案史料文物査詢系統典藏號020-010102-0016、https://ahonline.drnh.gov.tw/index.php?act=Display/image/2338657hPUnG6=#cnJi
 
注23
台湾国史舘檔案史料文物査詢系統典藏號020-010102-0016、https://ahonline.drnh.gov.tw/index.php?act=Display/image/2338657hPUnG6=#2SUR
 
注24
張憲文主編『南京大屠殺史料集』第69冊『耶魯文獻(下)』、江蘇人民出版社・鳳凰出版社、2010年12月発行、ISBN 978-7-214-
06820-0、681頁

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