「憧れるのをやめる」ことで得られること
鏡のこちら側の自分(体験している自分)と鏡に映った自分(意識的にとらえた自分)が分裂していること、そして、ともすれば鏡に映った自分を「ほんとう」の自分だと思って追いかけてしまうことについて、お話してきました。今回は、鏡のこちら側、つまり体験している自分にとどまることを選んだ場合のお話です。
もうひと昔も前のことになりますが、野球のイチロー選手がアメリカに渡ってメジャーリーグに挑戦した一年目を追ったドキュメンタリーがNHKで放映されました。今でこそイチロー選手の活躍はレジェンドとして周知のことですが、一年目のはじめのほうは、打率が伸び悩んだ時期があったそうです。ずいぶん前の番組ですのでうろ覚えなのですが、そのとき、バッティングコーチはイチロー選手に自分のバッティングフォームをビデオで確認してみることを勧めます。それに対してイチロー選手は、結果は出ていないが、自分の体の感じ方としては悪くない、軸はぶれていない(そのような言い方だったかあやふやですが、そのようなことだったと思います)という理由で断ります。
このことを、体験している自分と意識している自分の分裂、言い換えると鏡のこちらの自分と鏡の向こうの自分という対比でとらえると、ビデオで自分のバッティングフォームを確認するということは、鏡に映った自分を手がかりにして調整するということになります。何かがうまくいかないとき、客観的に振り返って問題点を見つけようとするのはよくあることですし、それによって得るものも大きいはずですが、そこにデメリットがあるとしたら、どんなことなのでしょう。
まずひとつには、自分の主体的な感覚よりも、外部からの「見え」を優先させてしまうというところに問題がありそうです。ビデオなり鏡なり外部のイメージをあくまで手がかりとして、自分の主体的な動きを修正するのに利用するというのであれば良いのでしょうが、自分自身の感覚を信頼できなくなり、外部の手がかりの方が重要になってしまうと、おおげさに言うなら「自分を見失う」ということになりかねません。また、外部の手がかりは一つとは限りません。たくさんの手がかりの中の何が良いのかわからなくなり、振り回されてしまうということもありそうです。イチロー選手の場合、あくまで自分の体の感じを重視していて、ビデオの映像は二の次にしか過ぎないものだったのでしょう。
また、もうひとつ重要だと思うのは、より心理的な側面です。遠く日本から異国のメジャーリーグに挑戦するという状況において、自分自身が通用するという自信を持ち続けるためには、自分の外側ではなく、自分の内側に立ち位置を確保する必要があったのではないかと思います。新しい慣れない環境に入っていくようなとき、どのようであれば通用するのか、たいていの場合、外側の「基準」や「イメージ」のようなものに合わせようとしてしまいがちですが(例えば、就活マニュアル通りに自分を合わせようとする就活生のように)、外部の基準やイメージを求め始めるとキリがなく、前回ご紹介したジュリアン・グリーンの小説の主人公のように、自分自身から離れてさまよいはじめてしまいます。イチロー選手の場合、そのような迷い道に踏み込むことなく、あくまで自分自身にとどまり、自分自身の体の動きを最大限に活用することで、その後の活躍につながっていったのだろうと思うのです(もちろんそのためには才能や努力も必要ですが)。
そういえば、先のワールド・ベースボール・クラッシックのアメリカとの決勝戦において、大谷翔平選手がチームメイトに「今日一日は、彼ら(対戦相手の選手たち)へ憧れるのをやめましょう」と声掛けをしたことが報道され、多くの感動を呼びました。良いものを持っているように見える外側の理想的なイメージを追い求めている限り、それを乗り越えることもできず、さらに悪いことにはほんらいの自分自身を見失ってしまう。そうならないように、あこがれるのをやめる、つまり鏡のイメージを追い求めるのをやめて、自分自身に立ち返って勝負するという決意を、メジャーリーグに挑むにあたって大谷選手自身が、自分自身に言い聞かせていたのではないか、そんな気がします。
このことは、野球やスポーツに限りません。強さとか豊かさとか美しさとか理想的なものを追い求め、それを持っているように見せようと、たいていの人が多かれ少なかれそのようなことに勤しんでいるんじゃないかと思います。理想を追い求めていくこと自体、悪いことではないと思いますし、自分を高めていくうえで必要なことでもあります。とはいえ、それが高じて、鏡の向こうにいる自分(つまり他人から見える自分)を強く豊かに美しくしようとすることに駆り立てられて、鏡のこちらにいる自分をおろそかにしてしまうようだと、迷いの道に踏み込んでしまいかねません。そうなってしまわないように、いったん立ち止まり、鏡のこちらの自分、つまり体験の主体である自分を、それがいかに弱々しく頼りなく感じられるとしても、そのような自分を活かしていくという姿勢を大事にしたいものです。
次回、もう一人、外部の理想を追いかけているうちに自分を見失いかけた、引きこもりの元祖ともいえる人物を取り上げてみたいと思います。