自分を純化するって、どういうことなんだろう?
鏡の向こう側に理想の自分を追い求めていくのではなく、鏡のこちらにいるありのままの自分を大切にするということについて、いくつかの記事を書いてきました。でも、鏡のこちらの自分ってどの自分?って疑問が湧きますよね。
以前の記事に、ラカンの鏡像段階という考え方について書きました。ちょっとだけ繰り返すと、人生のはじまりの乳幼児期に、人は身体的にも心理的にも未統合な状態でもがいていますが、運動能力と認識能力の高まりとともに、鏡の中に自分の鏡像を見つけ、視覚的に自分という統合された存在を見出すとラカンは考えました。鏡に映った自分は、他者から見た自分でもあります。こうした事情で、人はその後もずっと鏡に映った自分を気にかけ、ときにはこちらにいる自分から逃れるように、鏡の向こうに自分のあるべき自分を求めてさまよってしまったりするわけです。
話がちょっと逸れますが、昔、『妖怪人間ベム』というアニメがありました。ジャズ風の渋い歌からはじまるのですが、途中で「早く人間になりたい!」というセリフが入ります。少々記憶が定かでないのですが、ベムとその仲間(ベラとベロ)は、良いことをすれば人間になれると思って頑張っているという設定だったと思います。視聴者である子ども(大人も見ていたかもしれませんが)は、彼らに共感し、肩入れしながら見ていたわけですが、あたかも自分も心のどこかで人間なのか心もとなく感じていて、人間の仲間として認めてもらえるよう頑張っているようなところがあるからだとも言えます(太宰治の『人間失格』が漱石の『こころ』に次いでよく読まれているということも似たような事情かもしれません)。先のラカンの鏡像段階の話にあてはめれば、鏡に映った自分、つまり他人から見た自分が人間らしく見えるように頑張っている、というわけです。
おそらく、子どもから大人への成長の過程で、理想に同一化しながら自分を作っていくという過程は、社会に適応していくために必要なのだろうと思います。人によって、鏡に映った側の割合が多かったり、鏡のこちらの割合が多かったりするわけですが、多かれ少なかれ、たいていの人はそうした二重性をなんとかやりくりしているんじゃないかと思うのです。
ただ、中年くらいになると(人によってはもっと早く)、鏡に映った自分に同一化した自分を続けることに疲れを感じて、鏡のこちらの素の自分に戻ってホッとするというようなことが、だんだん増えてくるんじゃないかと思います。あるいは、社会的にある程度達成したと感じていて、これ以上無理に周囲に合わせて適応を続けなくてもいいと、開き直ってくるということもありそうです。
鏡のこちらの自分という、少々わかりにくい比喩的な言い方を繰り返し使っていますが、そういう自分を大事にしようとしたとき、それってどの自分なんだろう?という、冒頭の疑問について考えることには意義がありそうです。もちろん人によっては、素の自分なんだからすぐにわかるだろう、という人もいるでしょう。逆に、素の自分って言われてもわからなくなってしまっている人もいるでしょう。あるいは、人目を気にしないということで、これもまた、以前、記事に書いたように、人と比べて自分が損をしていると怒り出すサルのようだったり、あるいは、人のことなど無頓着に傍若無人に振舞ったり、それが鏡のこちらの本当の自分だっていうことだと、ちょっと悲しいような気もします。
パウロ・コエーリョ『アルケミスト』の中に、こういう一節があります。
錬金術というのは、近代以前のエセ科学というイメージがあるかもしれませんが、ユングも研究していたことを思うと、とらえ方によっては案外奥が深いものなのかもしれません。錬金術師たちは、卑金属を金に変えようとして頑張っていたわけですが、それを真に受けるとちょっと無理なことをしているよなって思いますよね。でも、心の中のプロセスを象徴的に言い表しているという視点でみると、また違ったふうに見えてきます。たとえば、卑金属を純化して金に変えるというところを、鏡の向こうとこちらという比喩に読み替えると、人は成長する中で社会に適応するために鏡に映った理想的な自分をあれこれ探し求めて同一化してきたけれど、そうやって外側から取り入れたものを、これは自分じゃないなと少しずつ取り除く作業をしていくことで、鏡のこちらにいる本来の自分が純化されていく。そんなふうに考えることができそうです。以前、記事に書いた昔ばなし「味噌かい橋」や、あるいはメーテルリンクの「青い鳥」のように、遠くまで宝を探し求めたけれど、最初から自分にすごく近いところに宝があることに気づくというパターンの話がありますが、それもこうしたことを示しているんじゃないか、そんなふうに思えてきます。
自分探しの自分とか本当の自分って何だろう? 自分を純化するつもりで自分じゃないものを玉ねぎやらっきょうの皮をはがすように剥いていったら、何も残らなかったというオチかもしれません(この世のあらゆるものは実体があるわけではないという仏教観に立つなら、それこそが真理なのかもしれませんが)。とはいえ、答えを急がず、いろいろな素材を手がかりに、もうしばらく考えていこうと思います。