作為と無作為、意識と無意識
前回までの3回は、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』について書いてきました。いくつかの仕掛けが組み合わさりながら、技巧を感じさせない自然さは、見事と言うほかありません。
小説でもドラマでも、表現がすごく自然ですんなりと受け入れることができることもあれば、ああ、これは狙っているなと気がついて、ちょっと白けてしまうときもあります。これは必ずしも現実的な問題を題材にしたノンフィクションのほうが自然で、現実的にはあり得なさそうな空想的・想像的なフィクションだと不自然になるということでもないようです。ノンフィクションのほうが現実を題材にしているぶんリアリティが出しやすそうですが、受け手の感動や共感を狙った編集の仕方に興ざめするときがありますし、荒唐無稽なフィクションでもその世界に違和感なくスルッと入り込めるときがあります。
これは作者の「作為」がどのくらい顔をのぞかせているかという問題なんじゃないかと思います。作為ということばにはいくつか意味がありますが、ここでは「意識的に作り出したもの」としておきましょう。何か創作をするとき、作りたいという動機があるはずで、まったく作為のない作品はないのかもしれませんが、その動機が意識的であればあるほど、作為的なにおいをわたしたちは感じ取ります。
たとえば、旅先で街を散策していて、出会った景色を写真に撮りたいと思うとき、よく考えてみると、どこかで見たようなステキな写真に似たモチーフだったり構図だったり光の加減を思い浮かべ、それを再現しようとしているということがあります。(往々にして、そういう写真は、いざ撮ってはみたもの、頭の中のステキなイメージにくらべて今ひとつパッとしないと感じられることが多いような気もします。)一方、あまり意図せずに撮った写真が、案外いいなと思えてくることもあります。
小説やドラマの脚本の書き手のインタビューなどを読むと、登場人物をどのように描こうかと考えているうちに、勝手に人物が動き出して、事後的にキャラクターが明確になってくるとか、話の筋そのものが、当初考えていた展開から変わってしまったとか、そもそもはじめから展開などは考えずに、筆が進むままに(まるで筆に意思があるみたいに)書いていくようにしているというような発言をしばしば目にすることがあります。
常識的・合理的に考えると、作ろうとしているモチーフやストーリーを意識的に明確にして、段取りを考えて計画的に作っていくほうが良いものができそうですが、こと「創作」に関しては、頭で考えて作るというだけでは作為が先走り、底の浅い表現になってしまうのかもしれません。
作為と無作為、意識と無意識は、かんたんにどっちが優れているとは言い切れない複雑な関係がありそうです。このことは創作場面に限らず、生活のいろいろな局面においても問題になることがありそうです。大げさな言い方ですが、生き方にも関わってくるような、奥行きの深いテーマなのではないでしょうか。