何故瞑想するのか
何故瞑想するのか、を書こうと思って少し考えてみたのだけれど、自分が何故瞑想するに至ったかという物語について自分自身があまり興味がない。だいたい瞑想しようと思った理由は極々簡単で、面白そうだからというそれだけだったと言ってもよく、それ以上の理由はない。以上、終わりです。
・・・というのも残念なので何故面白そうだと思ったのかを書いてみる。
まずは良識ある皆様が眉をひそめそうなことから書いてみよう。それはオウム真理教について。森達也監督の「A」「A2」という映画はオウム真理教を題材にしていて、興味本位で観たのだが、信者の人たちがしている、出家してまでやりたい瞑想って何なのだろうと思ったのは瞑想に興味を持った理由の一つ。ホームページも興味本位で覗いてみました。
それにしてもそのホームページ、犯罪を起こした集団ということを別にしても、そこに書いてある瞑想法や、体験記などには全然興味が持てなかった。私は聖者になりたい訳ではないので。オウム真理教の批判をするのが目的ではないので、この話はこのあたりでやめておくけれども、何しろ日本であれば順風満帆な人生を送れそうな高学歴の人たちがそんな敷かれたレールを降りてまでしたいことというだけで興味がわいた。
次は、高野山の宿坊に遊びに行ったときのこと。そこで会った若い(当時。私と同い年だった)お坊さんに、仏教を勉強するにはどうしたらよいかを聞いたところ、「大乗仏教ではなく上座部仏教の本を読むとよい」と教えられた。いや、あなた自分の宗派を推さないでいいんですか(そのお坊さんは色々面白い方だったので一緒に某新興宗教の映画を観に行ったりしたが、映画が面白くなくてがっかり)。
最後にもう一つ。私はその頃ピアノの伴奏の仕事をしていたのだけれど、緊張するのが苦痛でたまらなかったので瞑想して楽になるかなという期待があった。しかし、実際に瞑想をはじめてみると瞑想のほうが面白すぎてピアノを辞めてしまうという意外な結果を招くことになった。
何故ミャンマーなのか、というといくつかあるが当時「ミャンマーの瞑想」という本があって(出版社が倒産してしまって今は入手できるかわからない)、瞑想の段階についての記述が興味深かったのもある。最初にあらわれる智慧はこれ、次にあらわれる智慧はこれ、と段階ごとに書かれているので、指導者なしに読めば「今自分はこういう段階だ」と高い智慧の段階にあると勘違いする人が続出してしまうちょっとまずい本だ(当然本がまずい訳ではない)。
ちょうど仕事を辞めて時間ができた頃だったし、ミャンマーに行くいい機会ではないかと思ったのだが、そう簡単に事はうまく運ばない。意外な妨害が入ってしまった。