【創作BL】Halelujah! / ベルアン

 この学院には、中庭が二つあるらしい。らしい、というのは、あくまで噂だからだ。
 ひとつは昼休みに特ににぎわいを見せる、きちんと手入れされた草花と、時間によって時折虹がかかる噴水が中央に配置された、存在感のあるそれ。もうひとつは、ひと気のない、普段使われることのない教室が並んだ離れた校舎の近くのどこかにあるというそれ。

 かつて存在したという中庭――と呼んでいいものかどうか分からないが、それを探しに来たアンジェ――中性的な容姿にかわいらしい名前をしているが、彼はれっきとした男だ――は、すぐに見つけることができた。彼は一週間ほど前に入学したばかりだというのに、記憶力の良さが幸運としてか、学院の敷地内の地図がほぼほぼ頭の中に入っており、あるとしたらおそらくこの辺だろう、と何ヶ所か予想は立ててきたものの、まさかほぼ予想通りの場所にあるとは。しかし、普段人が寄り付かないような場所であるからにして、放置のされ具合がひどく、植物たちは好き勝手生い茂り、雑草の隙間からのぞいているベンチはすっかり錆びついていた。

 いくら学院内にあるとはいえ、こんな辺鄙な場所にいる物好きはいないだろう、ということはさておき、念のため辺りをきょろきょろ見渡し、人がいないのを確認すると、アンジェは深呼吸をひとつ。喉に手を当て、咳ばらいをし、軽く声出しをして喉の調子を確かめる。そして再びぐるりと一周見渡し、本当に誰もいないのを確認して、アンジェは発声練習をはじめた。

 静寂の空間に伸び渡る、ボーイソプラノ。もし周囲に人がいたら、みな足を止め、彼の声に聞き入るであろう声量と伸びやかなソプラノだった。

 普段からケアをしているからか、喉の調子は今日も好調だ。それなら、人もいないし、今日の授業は終わったから時間を気にすることもない。つまり、遠慮する必要はない。

 アンジェは砂で覆われたアスファルトの上を一歩踏み出すと、途端に生まれ変わったかのように明るい表情に一変し、アカペラで自由に歌い出す。男性ならではの伸びやかな声量が、春の空に響き渡った。しかし観客は誰もいない。それがアンジェにとっては、心地いい。何にも縛られずに、誰にも聞かれずに、自由にのびのびと歌う。普段まったく声を発さないアンジェにとって、至福の時だった。

「Halelujah!」

 すべてを歌い切って、アンジェは淡い空に両腕を広げた――その時だった。聞こえるはずがない拍手が、春風に乗ってアンジェの耳に届いた。とっさに拍手の聞こえたほうへ振り返る。

「……っ!」

 驚いて声が出なかったのか、それとも人前では絶対に声を発さないと決めているからか。アンジェの口から言葉は出なかった。

「すごいね、君」

 目が合った瞬間、拍手を送り続けている高身長の青年は人当たりのいい笑みを浮かべてアンジェのもとへ歩み寄ってくる。逃げたい、逃げなきゃ、ぐるぐるする頭の片隅で考えてはいるものの、体が動かない。

「すごくきれいな歌声で感動したよ。君、きっと一年生だよね。よかったらコーラスサークルに入らない?」

 そんなアンジェをよそに、青年は笑顔でアンジェに語り掛ける。

「コーラスサークルの子ではないよね、見たことない顔だし……。もしもう授業が終わったのなら、これから見学だけでもどう?」

 にっこり、笑顔で差し出された手。アンジェはその手を睨み、ぱしりとはねのけた。そして踵を返すと元来た道を戻る。手をはねられた青年は、ぽかんとその後ろ姿を見送る。

「あ、ま、待って!」

 小さくなっていく背中に手を伸ばし、青年は叫ぶ。しかし、アンジェが立ち止まることはなかった。

「僕、ベルトルトっていうんだ! さっきはごめん、馴れ馴れしく声を掛けたりして……! よかったら、君の名前だけでも教えてもらえない?」

 予想はしていたが、案の定、その背中が止まることはなく、返事もなかった。


   * * * * *


 その数時間後。アンジェはある教室の前に立っていた。ドアの窓には、貼り紙が一枚。一番上には"ようこそコーラスサークルへ!"と書いてあり、それより目立つように"メンバー募集中!!"と赤いペンで書いてあった。
 見飽きた貼り紙にアンジェはため息をひとつこぼすと、一歩近づきドアに手をかける。中からは談笑する声がかすかに聞こえる。まだ練習ははじまっていないらしい。

 無言でアンジェがドアを開けると、それまで談笑していた声がいくつか途切れ、視線がこちらに一斉に集中した。

「君、一年生? 見学?」

 やや力強いテノールにアンジェが頷くと、近くにいた人たちから声が上がる。

「一年生確保ー! さあさあ、どうぞどうぞー!」
「いや、確保って、まだ入るとは言ってなくない?」
「細かいことはいいんだよ!」
「全然細かくないと思うけど」

 先輩たちがそんな会話を交わしている中、アンジェは教室の中へと通される。どうやら新一年生で見学に来たのはアンジェが初らしい。椅子を出され、お茶とお菓子を出されと手厚い待遇を受けながら、質問は続く。

「君、名前は? 高校でもコーラスやってたの?」

 いつかは声を発さなければいけないが、アンジェとしては声を発したくはなかった。しかし、いつまでもだんまりで押し通すことは不可能だ。

「……ソプラノ」
「ん?」

 思わず聞き返してしまうほどの声量。数時間ぶりに発した声は、少し掠れていた。 

「ソプラノ希望、アンジェです」

 今度は、聞こえるくらいの声で。

 その声に、アンジェをもてなしていた先輩たちから伝染して、教室中が一斉に静かになった。

 これだから、嫌だった。自分の声が大嫌いな原因。それは、本人も言うように、何度も言っているように、アンジェの声は同年代の男性にしてはとても高く、音域は女声のソプラノに値する。変声期を迎えたにも関わらず、アンジェのようにソプラノの音域を出せる男性はいないことはないが、数は少ない。だから、めずらしい、と思うのも仕方のないことだ。

 そうは思っていても、やはりものめずらしい目を向けられるのは、未だに慣れなかった。歌なら、コーラスなら、ソプラノとして自分の声を活かせる、そう願っていたのに。  

「そうか、君、アンジェって言うんだ」

 静寂を破ったのは、やさしいバリトン。アンジェが顔を上げると、そこには忘れもしない、あの青年が立っていた。

「さっき会ったばかりだけど、覚えてるかな。ベルトルトだよ。気軽にベルって呼んでくれるとうれしいな。理由はどうあれ、コーラスサークルに来てくれてありがとう、アンジェ。歓迎するよ」

 ベルトルトが手を叩くと、おもむろに周りも手を叩きはじめ、小さな拍手がわき起こった。


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