裁くということ
入学した学校はクラスの半分が18歳、もう半分は我々のような社会人組。
社会人組は既婚者や子持ちも多く基本的に静かなので、教室の空気はやはりつい先月まで高校生だった子ども達の騒々しさが目立つ。どうやらボリュームゾーンは偏差値40程度の高校から進学してきた子たちのようだ。
彼らの様子を見ていると興味深い。呼ばれて返事くらいはできるが、何かを思考して答えるような問いを与えられるとたちまち黙る。近くの同じ18歳たちと照れ笑いのような目配せなどし、そのまま黙りこくって答えない。よって授業がスムーズに進行しない。
また、基本的に受け身で、何かを自分の頭で考えて自発的に動くという様子がない。さらに、よく周りをキョロキョロするが、これはどうやら周りと違う行動を自分が取らないようにするためのキョロキョロのようだ。自分の教科書に自分の名前を書くのかどうかさえ、周囲の同じ18歳組に確認する始末。
もし、これが現代の学校社会が作り出す産物なのだとすれば、『私』のころよりも更に思考停止とまわりキョロキョロが強まっている気がする。学校社会なんて『私』のころからろくなものではなかったが、それでもここまでではなかったように思う。
他にも、意味不明なオタク用語をさも共通語のようにしかも早口で話すオタクや、噂好きでスピーカー気質のシングルマザーなど、この教室はこれまで『私』が嫌ってきた人種のサラダボウルと化していた。
こういう手合いを『私』はこれまで見下し続けてきた。本当に愚かだと心の中で馬鹿にし、笑い続けてきた。連中と自分は生きている世界が違うと考えていたので、積極的に関わることも勿論してこなかった。
これまではそれでよかったかもしれない。何かを裁き、見下し、蔑む。『私』がずっとしてきたこと。誰かを自分のものさしで裁き、相手を自分より下だとすることで、自分を保ってきた。また、この「誰かを裁く」という概念は、即ち自分をも裁くことになる。そのため胸を張れないような自分であればあるほど、セルフ裁きを逃れるために、また見下せる誰かを作って自分の下におくのだ。こういう醜いことを『私』は何十年も続けていた。その果てに夫婦関係は崩壊し、子どもにも会えなくなった。
もう、こういう生き方はやめようと思った。今までのように誰かを腐したり、自分を下げたりして生きていくのではなく、自分を大事にし、相手を尊重し、多様性を許容し理解できるようになりたい。そう考えていた矢先、入学した学校にはかつての自分が見下していたタイプの人間がうじゃうじゃいる。これは天に試されている、そう思った。