あきらめとタピオカ
もう主人公のようにはなれないんだろうな。と、絶望的な気持ちになりながらタピオカを飲んでいる。
30年も生きて、こんなことを言うのも恥ずかしいけれど、私はいつだって物語の主人公のように生きたかった。噛み砕いて言えば、ずっと成功した自分を夢見ている。納得のいく仕事をして、社会的に認められたかった。
育った家は私以外はみんな体育会系だった。「試合に勝つためには」イコール「夢を実現するには」どうすればいいのか。なりたい自分を具体的に想像し、「こうなりたい」ではなく、「こうなる」と断言する。なんて、ポジティブ論に囲まれて育ってきた。
唯一の非体育会系の私は、大人になり、ひねくれた。根本的に考えてほしい。そもそも、夢をもつことはいいことなんだろうか? 夢を実現すれば、人生は成功なのだろうか? 夢を実現するための人生なのだろうか?
なりたい自分はたくさんある。だけど、評価するのは社会であり、他人。いくら私がポジティブに考えたところで、実力がなければ、最終着地点を調整しなくてはいけない。いま、私は調整段階にあるのかもしれない。大きすぎる夢は縮小計画。もしくは、白紙にもどす。それもいいのかもしれない。
一旦、追いかけるのをやめよう。そう考えると、少し気持ちが楽になる。それはもしかしたら、夢をあきらめた自分に、なりたいものが変わったのかもしれない。
と、絶望的な気持ちになりながらタピオカを飲んでいる。おいしい。きっと成功しようがしまいが、絶望しようがしまいが、タピオカはおいしい。ケーキもおいしい。世界はそうできてる。
一番絶望的なことは、こんなことを言ったって、明日にはまた夢を追いかけている、てこと。もはや呪いだ。私が夢だと思っていたものは、呪いだったのかもしれない。