お姉ちゃんだから
「あたしおかあさんだから」という歌が話題になったことがある。イマドキの人はそうなのか、と思ってながめていた。
歌詞にしろ、反対派にしろ、「おかあさんだから」、だから?「母親ではない女性たちも軽視」の意味が全く分からない。
申し訳ないけれど、ヒマなんだなって。
「私、△△の人だから」と言う人は苦手。「△△に沿った対応をしろ」と要求されているようなものだから、めんどくさい。「○○だから」というのを自分にあてはめるかどうかの議論もそれに似たようなもの。
それに「わたし」ではなく「あたし」というのが子どもっぽい。イマドキの人はそうなのかなと。
私も特急を全部覚えたし、童謡も100曲以上覚えた。でも、「おかあさんだから」でもなく、お子様文化が面白かったからだ。おかげで、私の歌を聞いて育った子どもたちは音痴だ。子どもがいなければ大の大人にはできないようなことを、こども心に帰って堂々とできるのは親の特権だ。
私も子ども3人、事実上、ワンオペ育児。というと「イマドキの子育ては大変なの!!」とイマドキの人に叱られる。触らぬ神にたたりなしだと思う。
でも、「おかあさんだから」も他人から言われるとムカッとするのは、分かる。言う相手にもよるけれど。
私も他人から「○○だから」と言われることがあったが、一番重いのが「お姉ちゃんだから」。「おかあさんだから」は大なり小なり自分の意志があった結果だけれど、「お姉ちゃんだから」は自分の意志とは無関係。「呪い」と言うなら、「お姉ちゃんだから」の「呪い度」のほうが圧倒的に高い。「おかあさんだから」は、人生の半分くらいかもしれないけれど、私の場合、「お姉ちゃんだから」は生涯続きそうだ。
「お姉ちゃんだから」の呪いは、人間関係を築くときの型になって、今も続いている。折れるべきは私だという思い込みだ。いやなら折れなければいいじゃない?という話だけれど、それもそれで居心地が悪くて、結局折れるか、逃げることを考える。
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今は「○ロナ脳」の人だとか、「病気」の人に対して、「お姉ちゃんだから」をやっているのかもしれない。
”「○ロナ脳」対策”は、やめることにしたが、「病気」の人については、「お姉ちゃんだから」を発動し続けることになるだろう。そういう人だらけだから。好きなものを好きなように食べてきた結果であっても、「自業自得」などと言ったら、本人よりも周囲から猛反発を食らうのは目に見えている。それを飲み込んで「病気」の人だらけの中を泳ぎ続けなければいけない。
生きている人間の中で、「お疲れ様、よくがんばったね」と言ってくれる人は誰もいないだろう。いや、評価されたくないのかもしれない。
となると、神さまだとか、仏さまだとか、お天道様が私の行動を見て喜んでくれたらいいなという話になる。
誰かのエゴ、つまり病気の人のために「お姉ちゃんだから」はやりたくないけれど、神さまだとか、仏さまだとか、お天道様のためだったら「お姉ちゃんだから」ができる。
5周くらい回って、吉野先生が「神様を喜ばす」とおっしゃる意味がようやく分かった。そうじゃないと、やってられないから。
昨日、1時間、”座禅もどき”をやってみてふと思ったことを書きとめてみた。
(タイトル画像:ただただ座ってみようと。 (tasogare-glider.com)より)