愛と恐れ
HEAVENESEの動画を見ながら、娘が要らないと言ったハイウエストのパンツを短パンにリメイクした。
ここのところ、裁縫をしながら動画をラジオがわりに聞いている。HEAVENESEの動画もその一つ。裁縫しながらだと、このくらい長い動画のほうが助かる。昨日もベルトやファスナーなどをほどき、しつけをかけながら聞いていた。
最後のほうのクライマックストーク「幻の敵」(2時間17分ごろ)のマレさんのお話に、思わず手が止まった。
キリストはローマ社会の敗北という十字架という処刑の中で、神の愛を現した。これが聖書のメッセージだよね。ぼくは聖書を読む、また聖書を教える人間だから、ひどい仕打ちを受けても報復しない、あれほどひどい目に遭いながらも、父よ、彼らを許してください、彼らは何をしているか分からないと祈った、あの祈りの中に愛があるんだ。それがあの聖書のメッセージなんだ。よく考えれば、高圧的な支配者の態度の中に愛が現れるわけはないよね。同じ聖書には、愛には恐れがないと書いてある。恐れがないから愛が分かる、恐怖のあるところには愛は分からない。恐怖と愛は共存できない。それが聖書の言うところで、全くそのとおりだと思う。
二つのことを思った。
一つは15年前の不思議体験のこと。もう一つは「愛」と「恐れ」の関係。
一つめの15年前の不思議体験、その意味を折に触れて考えてきた。あれは何だったのだろうか。今の状況は、毎日がジェットコースターに乗って急降下しているようなもの。15年前もひどかった。たぶん、ひどさで言えば、今のほうがひどいと思う。でも、あのときは始めてだったから、対処の方法が分からなくて、衝撃をもろに受けたと言えるかもしれない。生きていたくないけれど、死ぬ元気がなかったというようなものだった。
その日も涙に暮れていた。夢うつつだったときに、私の手首が不意につかまれ、強い力で引っ張られた。見上げれば、「私に繋がっていなさい。要らない枝は神が手入れをなさる」とその人は言った。私より若い男性だった。イエスだと思った。
今も昔も信者ではないし(これからもお仲間になるつもりはない)、聖書はつまみ食いしている程度なのに、どうしてイエスだったのか。東洋のほうが好きだから、仏教のほうが親近感があった。だから、お釈迦さまでも良かったはずなのに。直前にたまたま聖書を読んでいたからだと思っていたけれど、マレさんのお話を聞いて、聖書のその部分を読んだのも、必然だったのかもしれないと思った。
当時の私にすれば、不条理この上なかった。周囲にいる人の様々なエゴに応え、全てが円滑に回るように涙ぐましい努力をしていた。嫌がる自分の気持ちと両立させながら。周囲の誰よりも頑張っていたのに、母親失格、娘失格、社会人失格、の烙印を押されたようなもの。こんなに頑張ったのに、社会の敗北者・・・
そのときに、「社会的私」は死んだのかもしれない。それから15年、私個人については生きるのがとても楽だった。その一方で、身をよじるような苦しみもあった。この先を行けば、断崖絶壁で真っ逆さまだから、止めたほうがいいよ、と言うのだけれど、誰一人止められなかった。みんな、振り切って突き進む。私にはひどい言葉を投げつけて。投げつけられた言葉も辛いが、その人のこの先の苦しみを思うと、辛い。知っていれば、私は15年前の苦しみがなかったと思うから、私のような過ちを繰り返してほしくない、それだけなのだけれど。
キリストはローマ社会の敗北という十字架という処刑の中で、神の愛を現した。
振りかえってみれば、お釈迦様ではなく、イエスじゃなきゃダメだったと思う。神の愛を現すなんて、私ごときにはあり得ないし、処刑もされていないし、死んでもいないけれど、社会での敗北、社会的死という点では似ている。
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二つ目は、「愛」と「恐れ」の関係だ。去年、「正しく恐れよ」と盛んに言われていた。
「正しい」を決めるのは誰か。
何年か前に「ADHDの正しい理解」のサイトを、ADHDの薬を販売している製薬会社が出していた。今は、製薬会社以外のところも出しているようだけれど。
2014年のセウォル号の沈没では、多くの高校生が亡くなった。乗客たちには客室や座席にとどまるよう指示があり、それに従った人が逃げ遅れて亡くなったという。船長をはじめ、助かった人は「正しい」行いをしていなかったことになる。生き延びるには、「正しい」よりも自分の直観に従うことだ。今のこのご時世でも同じだと思う。
そして「恐れ」。
ガンディーの『獄中からの手紙』の「無畏」の項にはこう書いてある。
完全なる無畏は[ほとんど教えられて教えられるものではありません。それは]迷妄から解放されるということですから、至高者(神)を実感した者だけが到達できることになります。人は確固たる不断の努力と、自信をはぐくむことによって、この目標に向かってたえず前進することができます。
無畏(恐れがない)になるには、至高者(神)を実感しなければ、到達できないと言う。
愛には恐れがないと書いてある。恐れがないから愛が分かる、恐怖のあるところには愛は分からない。恐怖と愛は共存できない。
神=愛なのかは、私には分からないが、両者はとても近いところにあるようだ。そこには恐れががない。
今のご時世、人々を日々怖がらせ、「怖い」という人を尊重しましょう、それが優しさだと言う。為政者の思うツボではないか。そのために多くのものが失われている。
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今回の騒ぎについての本は、1冊も読んでいない。この騒ぎの前に枠関係の本を読んでいたこともあるし、著者の先生の話はネットですでにある程度分かっていると思ったから。
子どもが2回打ったと聞いてから、ますます読む気がしない。
昨日、予約していた本が来た。
どうして予約したか、よく覚えていないけれど、2年後、5年後のことが書かれていると思ったからだと思う。一番最後の船瀬先生の「枠を打ってしまった人もあきらめない」のところだけ読んだ。「阿鼻叫喚が始まるのは2年後~5年後なのです!」なんて読みたくない。
でも、読まなければいけないように思う。身をよじりながらも。それが、あのときに私に運命づけられたものかもしれないと思った。
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