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百尺竿頭一歩を進む

「百尺竿頭一歩を進む」という禅語があります。
これは百尺の竿の先に達しているが、
なおその上に一歩進もうとするという意味。
どんなに努力や工夫を尽くしたと思っても
さらに向上を目指せということ。
修行に修行を重ねて最高の境地に達した上に、
さらに一歩を進めてみよ、ということ。
思うに、さらに一歩進んだらその百尺の竿から
落ちるんですよ。
落ちたら、もしかしたらさとりの中にダイブできるのかもしれませんし
無駄に転落して墜死するのかもしれません。
多分そういった何か全く違う次元のところへジャンプするとき
違う認識が現れるんじゃないかなと思います。
ただ、百尺の竿には登らないとそこには行けないんです。
そしてその竿は別に仏道修行に限らずいろんな竿があるのですね。

(「修行しないと救われないの?」より)


昨日の記事のタイトルが「贖罪」で、今日は「無償の愛」だと、キリスト教っぽいし、重いな~と思っていたところ。いずれ書きたいと思っているネタではあるけれど、おかげさまで、そのような心配をせずとも、あちこちでネタを拾ってしまう「書きたい中毒」。千鳥足でふらふらしていたら、また、いいものを拾ってしまった。

「百尺竿頭一歩を進む」

これは、何かを極めた人に当てはまるのだと思う。私は「食い散らかし女王」なので、三十尺ぐらいの竿がずらりと並んでいる状態だと思う。

そのずらりと並んだ三十尺の竿から、一斉に落っこちたのが今。今までやってきたこと全てが、ロックフェラーの手の上だということを知ったところだから。


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(【今、世界はどうなっている?】林千勝×水島総 第8回「もう一つの帝国、ロックフェラーの歴史と力 / 日本的ではなく世界的、選挙と共に終わった『新しい資本主義』」[桜R3/11/20] https://youtu.be/5bulCtyeh7Y?t=3373 より)


振りかえってみれば、色々と、ひっかかりがあったからこそ、一つに絞りきれずに、食い散らかしてきたのかもしれない。

前兆があったといえばあった。

一昨年、ある通説に引っかかりを感じた。それで、色々と調べたら、あるエライ人がそう言っていたから通説になったということが分かった。それがもう50年くらい放置されていた。素人の私が調べて分かるようなことを、どうして誰も言わなかったのだろうと、調べてみたら、明治期の政策が遠因としてあった。

これは、白書に書かれたから通説だと主張する○○学と同じようなものじゃないか。これが学問なのか?


そこで、一段階目のショックを受けた。そして、この茶番を迎えた。結局、○○学も、私が調べた分野も、どちらもロックフェラーの手の上だということが分かった。おまけに、私が過去に食い散らかしてきたほとんど全てのものが、アウトだ。ショックだったけれど、二段階で落とされたし、しかもそれほど高くない位置からだ。

おかげさまで、墜死することも、骨折することもなく、別の次元に入ろうとしている。ありがたいことなのだろう。

引っかかりの原因が分かったから、今は晴れ晴れとして気持ちがいい。


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ここでまずご自身に聞いておいていただきたいのは、
「なぜ救われたいの?」「救われてどうなりたいの?」
ということ。(「修行しないと救われないの?」より)

不遜かもしれないけれど、私自身は特に救われたいとは思っていない。私はいいから、私の愛するバカが救われてほしい。

私が願ったところで、どうにもならないのは分かってはいるのだけれど、しょうがないよね、この執着だけは。この執着を突き詰めていけば、どこぞで落っこちて、別の境地に入るのかもしれない。きっと、入ったら楽になるのだろう。でも、入りたくない。いつまでも執着して、いつまでも苦しみ続けるほうがいい。だって、母親だからね。

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